去った光景がありありと蘇ってきた。彼はそれをじっと見つめた。そして其処に、物に惑わされたようなものを見た。それからまた取り返しのつかない心苦しいものを見た。
孝太郎は新たに過去をずっと見渡した。――凡てを投げ出して富子の云う所に従うが正当だろうか、万事を排して自分一人を守るが至当だろうか。または過去の自分の態度が間違っていたのであろうか、それならば悩んだ富子の魂を他処《よそ》に見るべきであったろうか。或は富子の求むる所が誤っていたのであろうか。そして富子と自分とは熱い唇を交わしてはいるけれど……。
孝太郎は此処まで考えてぐっと何かに引き戻されたような気がした。そして胸が重苦しいものにしめ付けられた。凡てをずたずたに引き裂き掻きむしりたいような強暴な精神が彼のうちに乱れた。
けれど夕食の膳に着いて恒雄と富子とに顔を合した時、彼の頭には重い固まりが出来ていた。凡てが生命のない石の塊りのような姿を帯びて彼の眼に映じた。
孝太郎は次第に自分の書斎にとじ籠るようになった。急に寒気が増してきたせいもあるけれど、新らしい悩みが彼の心を捕えたからである。苛ら苛らした日が事もなく明けては暮れた
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