感覚が漂っている。
 孝太郎はつと手を延して彼女の手を取った。温い触感が彼の全身を流れた。とそれが突然彼の胸をぎくりとさした。彼は喫驚して女の顔を見た。怪しい鋭い眼が其処にあった。
 孝太郎は我知らず急に立ち上った。頭の中で何かがわやわやと立ち乱れた。そして彼の室の中を歩き廻った。
 二人の間にちぐはぐな沈黙の時間がすぎた。午後の弱い日の光りの障子に写している木の枝が、ちらちらと揺れていた。
「あなたはまだ決心して被居らないのね。」と富子が静に云った。
「私には分らない。」
「何が?」
「何にも。」
 それきり二人はまた黙ってしまった。富子はじっと畳の上を見つめていた。そしてやや暫くして彼女は、孝太郎の方は見ないで口早にこう云った。
「あなたは私をどうなさるおつもりです。」
「あなた私に何を求めるんです。」と孝太郎はすぐに我知らず反問した。
 富子はぶるぶると肩を震わした。と間もなく彼女の眼から大きい涙がぽたりと膝の上に落ちた。それから彼女はじっと坐ったまま止度なく涙を流した。
 孝太郎は物に憑《つ》かれたように茫然として富子の前に立った。何かが彼のうちに平衡を失していた。
 彼は身を
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