身の心に向って云ったもののような気がしたのである。彼はじっと富子の顔を見た。
「もう過去のことは云っても仕方がありません。」
「ではどうしたらいいんでしょう。」
「どうするって……。」
「私もう、」と云いかけて富子は一寸息をついだ。「もう何もかも、私とあなたのこともすっかり恒雄に云ってしまおうかと思っています。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
「もう仕方がありませんわ。」
孝太郎は何かにぐっと突き刺されたような気がした。凡てをかまわず投げ出したいような気分と、凡てから免れたいというような気分とが、彼の胸の中で渦巻いた。
「どうなさるおつもり?」
「どうって私には……。」
「もう仕方がありませんわ。」と富子はくり返した。
「私はまだ……。」と孝太郎は云った。そして頭の中で、「そんなことは考えていません。」と云った。
富子は黙って孝太郎の眼の中を見入った。そしてそのまま、真直にしていた身体を少し斜にした。彼女の堅くなっていた肉体は急にしなやかに弛んできた。その眼には人の心を魅惑せねば止まない本能的な光りがあった。唇が殆んど捉え難いほどにちらと動いた。ふっくらとした頬の皮膚には滑らかな
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