「それでいいんです。」
「何も君に関したことじゃない。」
二人はそれきり堅く口を閉じた。彼等の上には陰凄な夜の空があり、下には濁った水が澱みながら動いていた。そして遠くに、水面に反映する赤い灯が揺ぎもなく浮んでいた。
「僕はもう帰ります。」と恒雄が云った。
孝太郎は、その反感と軽侮とに拘らず、何か怪しい糸で引きつけらるるかのように、恒雄の後に黙然として従った。
家に入った時、女中が玄関に彼等を迎えた。そして家の中の空気と電燈の光りとに、二人の心は何とはなしにほっとした。
「お休みなさい。」と二人は云った。
孝太郎はすぐに冷たい床の中に入った。そして頭から蒲団を被ってしまった。
彼の頭に一杯もやもやと立ち罩めていたものが次第に晴れていった。そして先刻恒雄と共に表に出る瞬間に見た富子の顔がちらと浮んだ。彼はそれを追っかけるようにして思い浮べてみた。其処には自分自身に対するまた富子に対する、云い知れぬ腹立たしさがあった。彼は自分自身の何かを富子の掌中に握られているとはっきり感じた。そして彼女の肉体とその高慢とが、彼に漠然とした憤りと恐怖とを与えた。
彼はもう恒雄に対して何等の反
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