てしまった。彼等はもはや語るべき何物も、考うべき何物も持たなかった。ただ漠然と引き緊ったものを頭に持って、うら寒い通りを真直に歩いた。
点々と軒燈に輝らされた通りには、物の遠近を無くする空虚が拡がっていた。そして凡てのものの上に、曇ったまま澄みきった暗い空が蔽うていた。
二人はただ足に任せて歩いた。そしてとある掘割の袂に出た。彼等は云い合したようにその冷たい欄干にもたれて、下に澱み流るる黒い水面に見入った。
「どうするつもりです。」と突然恒雄が口を開いた。その言葉は殆んど挑戦的にあたりの空気に響いた。
孝太郎は一寸唇をかみしめた。それから静かな落ち付いた調子でこう云った。
「あなたはどうしてあんなことを……。」
「僕ばかりの責任ではないんです。」
「ですけれど少しは反省なさるが至当でしょう。」
恒雄は急に真直な上半身を、よりかかるように橋の欄干に落した。
「僕も恐らく君が想像し得ないほど苦しんでいます。」それから暫くしてまた云い続けた。「全くそれは必然の勢で仕方はないんです。例えば妻が僕に茶を汲んで出すとします。その時どうかして妻《あれ》の冷たい眼差しが僕の胸を刺すんです。僕の
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