郎を見た。然しそれは一瞬のうちに過ぎ去った。彼女はまた力なく首垂れてしまった。
「どうなすったのです。」と彼はきいた。
「いいえどうも。」
「私は恒雄さんを信じています。」
 富子は眼をあげてただじっと孝太郎を見た。
「此の頃では、」と彼女は云った、「何かしきりに考え事をしているようです。そして怒《おこ》ることがよほど少くなりましたけれど……。」
「けれど?」
「私には温くして貰うより、冷たくして貰う方がいいんです。」
 孝太郎は一寸身を震わした。そしてじっと彼女を眺めた。その頬から頭への肉付を見ていると、何か悩ましいものに襲われた。
 富子はほっと吐息をした。重苦しいものが二人の間に挾ったのである。二人はそれきり沈黙のうちに、静に移ってゆく庭の日影に眼を落した。狭い庭にも秋の凋落が何時とはなしに襲っている。淋しく立った樹々の幹には孤独の影が冷たく凝結して、その向うを限った板塀の節穴から、ほろろ寒い気が流れてくる。
 孝太郎は過ぎし日を思った。初秋の頃、彼は富子と二人でよく黙ったままいつまでもじっとしていることがあった。その頃女の心には悩みと儚《はかな》い希望とが満ちていた。彼はその心
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