が残る筈だと思っています。」
「君はそれを広い愛というものよりもっと狭くて深い所謂恋愛というものにもあてはめようと思っているんですか。」
「私の恋愛観は別の問題です。然しともかくもあなたの富子さんに対する態度は其処から初めるのが正当だろうと思いますが。」
「或はそうかも知れません。然し僕の妻に対する強い愛着をどうしましょう。現在の妻のうちにある彼女の過去をどうしましょう。それから二人の間の冷たい反目をどうしましょう。今になってはもう後戻りの出来ない位、それらのものが深く根を下しています。僕はまあ云ってみれば美しい栗の毬《いが》を胸に抱いているようなものです。もう離れて見れないほど強く密接に抱いているんです。それでも畢竟は僕の胸と栗の毬とは相容れない別々のものなんです。何れかが壊れなければ……。」
「それでは毬を壊して中だけを抱くだけでしょう。」
「それには僕と妻と全く別々の離れたものにならなくては……。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
 二人は黙って顔を見合った。彼等の興奮した頭に不祥な影がちらっと閃き去った。
 孝太郎はつくづくと恒雄の顔を見守った。その心持ち下脹れの顔の輪廓と、多少角ばった※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の筋肉と強い眼の光とを彼は見た。
「一体それでどうなさるおつもりです。」と孝太郎は云った。
 恒雄は若《にが》い表情をして遠くの方を見つめた。
「やはり僕と富子とは夫婦ですからね。」
 孝太郎は何かに冷りとして黙し込んでしまった。彼は顧みて、自分と富子と、それから恒雄との間を思ってみた。そして其処に何か調子外れたような不安を見た。
「もう下らない話は止しましょう。」と暫くして恒雄が云った。彼はきっと唇を結んで、右手の拳でじっと畳の上を押えつけていた。
 彼等はそれから何かつまらぬことを暫く話していた。然し妙に冷たい隔《へだた》りが二人の間にあった。
 時が次第に冷やかなものを三人の間に持ち来した。彼等は何とはなしにただじっと互の心を探るように黙ってしまうことがあった。そして孝太郎は一人で、どうにかしなければ、どうにかしなければ……と苛ら立った。
 或晩皆で茶の間に集った時、富子の顔には執拗な高慢の影がさしていた。そしてその凡てを反撥せんとする冷静と、恒雄のじっと動かない瞳とが、相互にある反映をし合って昂じてきた。で孝太郎は勉めて快活を装った言葉を発してみたけれど、すぐに恒雄と富子との緊張した沈黙に感染して黙り込んでしまった。
「葡萄酒を少しくれないか。」と恒雄が云った。
 富子は黙ったまま立ち上って壜とグラスとを持って来た。それから女中の手から水菓子の盆を受け取って恒雄の前に置いた。そして「はい。」と云った。
 恒雄はその言葉に眉をぴくりとさした。それでも黙ってグラスを干した。
「どうです。」と恒雄は孝太郎にもそれをすすめた。
「今御飯を召し上ったばかりなのに……。」と富子がはじめて口を開いた。
 孝太郎は苦しくなってきた。
「妙にむし暑いような晩ですね。」と彼は云って、そっと座を立った。その時ふと富子の顔を見たら、冷い瞳の光りが彼の胸を射た。
 孝太郎は障子を開けて縁側に出た。冷たい空気が彼の熱した額を流れた。それは静かな空虚な夜であった。暗い物の隅々が妙に透《すか》し見られた。彼は張りつめたままの気分で長く其処に立ちつくしていた。
 その時、がらがらっと物の投り出されるような音がした。孝太郎は駭然として茶の間に走り入った。
 颶風のようなものが突然彼の頭に渦巻き去った。彼は息を止めて其処につっ立ってしまった。そして次第にはっきりと室の中の有様が彼の眼に映ってきた。
 葡萄酒の壜とグラス盆とが其処に投げ出されていた。だくだくと壜からこぼれた葡萄酒は赤い血のように静に畳の上を滑って流れていた。富子はその前に蒼白な顔をして、それでもじっと坐ったまま室の片隅を見つめている。その上に充血した眼を据えて石のように堅く恒雄はつっ立っている。彼等の間には今にも張り切れそうな緊張した沈黙と反撥とがあった。そして何かがじりじりと圧《お》し潰すように迫ってくるがようであった。
「どうしたんです!」と孝太郎は叫んだ。
 その声は急に何かを煽るように響いた。恒雄は肩のあたりをぴくと震わした。孝太郎は自ら自分の声に懼然とした。そして殆んど本能的にこう云った。
「外に出ましょう。」
 恒雄は二三度頭を強く横に振った。それからしかとした調子で孝太郎に応じた。
「外に出ましょう。」
 二人はそのまま表に出た。その際孝太郎はふとふり返って富子の顔を見た。彼女はその堅く引きしめた顔の眉一つ動かさなかった。そして何かを挑むような高慢な眼が、動物的な冷たい光りに輝いていた。
 外に出ると彼等の緊張し興奮した精神はそのままに堅く凝結し
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング