てしまった。彼等はもはや語るべき何物も、考うべき何物も持たなかった。ただ漠然と引き緊ったものを頭に持って、うら寒い通りを真直に歩いた。
 点々と軒燈に輝らされた通りには、物の遠近を無くする空虚が拡がっていた。そして凡てのものの上に、曇ったまま澄みきった暗い空が蔽うていた。
 二人はただ足に任せて歩いた。そしてとある掘割の袂に出た。彼等は云い合したようにその冷たい欄干にもたれて、下に澱み流るる黒い水面に見入った。
「どうするつもりです。」と突然恒雄が口を開いた。その言葉は殆んど挑戦的にあたりの空気に響いた。
 孝太郎は一寸唇をかみしめた。それから静かな落ち付いた調子でこう云った。
「あなたはどうしてあんなことを……。」
「僕ばかりの責任ではないんです。」
「ですけれど少しは反省なさるが至当でしょう。」
 恒雄は急に真直な上半身を、よりかかるように橋の欄干に落した。
「僕も恐らく君が想像し得ないほど苦しんでいます。」それから暫くしてまた云い続けた。「全くそれは必然の勢で仕方はないんです。例えば妻が僕に茶を汲んで出すとします。その時どうかして妻《あれ》の冷たい眼差しが僕の胸を刺すんです。僕の心は急に堅くなり、妻の顔には執拗な反撥が浮ぶんです。そして互に相挑むような気分を反射し合って、それが必要の勢で昂じてきます。どうにも仕方はないんです。……実際妻には僕の胸を刺すように冷たい刺《とげ》があるんです。」
「あなたにも富子さんに取っては冷たい刺《とげ》があるんでしょう。」
「そうかも知れません。然し要するに如何とも仕方がないんです。」
「けれどあんな乱暴なことをなさらなくても……。」
「それは妻の方からも挑むんです。妻の眼の中にはそれがありありと読まれます。まあ何という高慢な女でしょう。」
「それならあなた自身も高慢だと云えるでしょう。」
「高慢でもかまいません。僕が高慢だから妻の高慢が許されるという理由はないんです。」
「それであなたは富子さんを愛するというんですか。」
「愛するから苛ら立つんです。」
 恒雄は真直に立ち直って、どす黒い水面を睥むようにした。
 孝太郎は何かに突然打たれたような気がした。恒雄と富子との間の愛を願ったことが訳もなく腹立たしくなった。そして反抗の気がむらむらと湧き立った。
「あなたは余りに富子さんの性格をふみ蹂っていらるる!」
「だから何です?」
「それでいいんです。」
「何も君に関したことじゃない。」
 二人はそれきり堅く口を閉じた。彼等の上には陰凄な夜の空があり、下には濁った水が澱みながら動いていた。そして遠くに、水面に反映する赤い灯が揺ぎもなく浮んでいた。
「僕はもう帰ります。」と恒雄が云った。
 孝太郎は、その反感と軽侮とに拘らず、何か怪しい糸で引きつけらるるかのように、恒雄の後に黙然として従った。
 家に入った時、女中が玄関に彼等を迎えた。そして家の中の空気と電燈の光りとに、二人の心は何とはなしにほっとした。
「お休みなさい。」と二人は云った。
 孝太郎はすぐに冷たい床の中に入った。そして頭から蒲団を被ってしまった。
 彼の頭に一杯もやもやと立ち罩めていたものが次第に晴れていった。そして先刻恒雄と共に表に出る瞬間に見た富子の顔がちらと浮んだ。彼はそれを追っかけるようにして思い浮べてみた。其処には自分自身に対するまた富子に対する、云い知れぬ腹立たしさがあった。彼は自分自身の何かを富子の掌中に握られているとはっきり感じた。そして彼女の肉体とその高慢とが、彼に漠然とした憤りと恐怖とを与えた。
 彼はもう恒雄に対して何等の反感も軽侮も持ってはいなかった。彼は恒雄を自分と親しい所に置いて見た。そして……恒雄と富子と床を並べた姿を思い浮べて凝然とした。――恒雄と富子とは夫婦である。悩みながらも彼等は永久に夫婦の生活を破りすてることが出来ないであろう。
 孝太郎は心が苦しくなって来た。彼は眼を閉じて凡ての想像を閉じてしまいたくなった。重苦しい動かす可からざるものに突然ぶつかったような気がしたのである。
 彼は大きく眼を見開いて何かを睥みつめるようにした。それから急に顔、そして眼を蒲団に押しあてた。胸づまるような涙が眼に溢れてきた。

 孝太郎はなるべく恒雄と富子との前を避けるようにした。彼等の前に落ち付いてじっと見つめている眼を置くのが、何となく自分自身にもすまないように思えたのである。
 それでも恒雄は彼に他愛ない様子を見せようとしているらしかった。然しわざと装った平気が却って往々彼を狼狽させることが多かった。そしてそれが二人の間にある距てを置くように見えた。
「気持ちのいい晩ですね。」とある爽かな夜、彼は孝太郎に云った。
「ええ、」孝太郎は彼の顔を見上げた。
「こんな晩はぶらぶらと当もなく歩き廻るといいです
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング