をやさしい慰安の眼でじっと見守った。そして二人の間にはしみじみとした温情が流れていた。それがいつのまにか、彼の心には暗い影がさし、女の心にはフェータルな影がさしてきた。二人の間に交わされたものは止むすべもない数度の唇と腕との抱擁にすぎないけれど、それが二人の間の気分を全く初めと異る色に染めなしてしまった。
「私もうあなたなしには生きてゆけない。」と富子は思いつめたように囁いた。
「私達はお互に悔いの無いような途を進まなくてはなりません。あなたはふっと嫌な影が心にさすことはありませんか。」
「いえ、どうしてでしょう? 私あなたにお目にかからなかったら今頃はどうなっていたことでしょう。」
「私も多少でもあなたのお力になったのならどんなにか嬉しいんです。」
「いつまでも私のお友達になって下さるんでしょうね。」
「ええあなたさえそうでしたら。」
「私あなた一人がお頼りですもの。」
「私は何だか自分に力が無くなってゆくような気がします。何だかこう自分の足下が不確かなような……。」
「私ももう……。」そう云って突然富子は孝太郎の肩を捉えた。
 二人はじっと互の眼に見入った。その時、孝太郎の云った言葉の真の意味は、富子の眼差しに征服されてしまっていた。孝太郎ももうそれを意識してはいなかった。
 彼等のうちには一瞬間凡ての忘却があった。そしてその周囲に淡い日の光りがあった。

 恒雄はいつも午後の五時頃に社から帰って来た。でも時によると三時頃に帰って来ることがあった。そういう時は大抵孝太郎の所謂サロンで彼と何かの話をしながら、夕食までの時間を過すのが常であった。或る日もやはり彼は早く帰って二階に上って来た。
 その時孝太郎は寝椅子の上に横になって空を見ていた。恒雄はすぐに其処にあった坐蒲団の上に大儀そうに坐った。それは先刻まで富子がしいていたものであった。
「職業の方はどうです。」と恒雄はきいた。
「さっぱりまだ手掛りがありません。」
 孝太郎はこう答えながら自分の身をかえりみた。彼は学校を卒業してある職業を探しながら閑散な日を送るようになってから、種々の都合上恒雄の家に起臥するようになったのである。それからもう半歳余りの日が過ぎた。彼はただ閑散なるままに懶惰な生活をして時を過した。
「君のように何時も呑気だといいですね。」
「そう呑気だというんでもありませんけれど、何だか世間のことはうるさくて。」
 それから二人は暫く種々な世間話をした。けれど孝太郎はそうしているのが次第に不安になって来た。恒雄が何かを押し隠すような風にしているのが気にかかったのである。それで直接にこう尋ねてみた。
「何だか今日は少し苛ら苛らしていらるるようじゃありませんか。」
「ええそうかも知れません。」と恒雄は平気で答えた。
「何か御心配のことでも?」
「やはりいつもの問題なんです。僕は常にそればかり考えさせられるようになったんです。そして次第に悲しい結論に達してきます。」
「結論だと仰言ると?」
「さあ何と云ったらいいですかね。……まあ一口に云えば僕は到底富子と根本から相容れないということです。」
「それは無理にそういう風に考えようとなさるからではないでしょうか。実際あなたは余りに富子さんの過去に拘泥しすぎていらるるようです。」
「いやそうでもないんです。と云うのは、僕は今迄と別な方面から考えたんですがね。実際僕は今迄ただ妻をじっと見ていたきりで、自分の方はお留守にしていたんですね。それも妻というものに余り期待を大きく持ちすぎていたからでしょう。僕の理想は現実から美事に裏切られてしまったのです。それを僕はなぜだなぜだと云って妻に責めまた自分に責めたんです。現実の姿に向って何故だと問うのは過去を現在に返せというのと同じに馬鹿げたことなんですね。で僕はもう妻に向ってなぜ僕の理想通りでないのかと責めはしませんでした。その代りに富子という者と僕という者とを別々に引き離して見てみたんです。すると僕と富子とはどうしても相容れない二つのものだと思うようになったんです」
「するとあなたは全く孤独を見出されたわけですか。」
「いや全くの孤独というものを僕は信じません。実際僕は自分を見る時、自分のうちに妻の……そうですね、匂い、息、いや兎に角何かを見出すんです。僕のうちには妻《あれ》の肉体が深く喰い込んでいます。それにどうでしょう、僕の心と妻《あれ》の心とは全く背中合せに反対の方を向いているんですからね。」
「それはあなたが富子さんの心に触れる場所が悪いという故じゃないでしょうか。どんな人の心にも屹度ある方面から見れば温い柔い部分があると私は信じますね。そして其処からその人の心に触れる時には、手を合わしたいような敬虔な心持ちが起る筈です。そういう態度を押し進めてゆくと、しまいには愛ばかり
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