に忍びなかった。
 恒雄のこういう心を富子は理解していないであろう。そしてまた、富子は過去にかの男の胤を宿したことがあるけれど、それは自然の流産に終ったという事実を、恒雄はまだ少しも知らないでいる。それからまた富子と孝太郎との新らしい間を恒雄が知ったなら……。
 孝太郎は心が何かに搾らるるような気がした。そして単なる同情の接吻というものは……と考えてみたけれど、その先を見つめるのに堪えられなかった。
「何処かへ行きませんか。」とある時恒雄は孝太郎に云った。
 それは綺麗に晴れた日曜の朝であった。静かな小春の日光が、何処かに小鳥の囀るような気持ちを齎していた。
「そうですね。」と孝太郎は曖昧な返事をした。
 種々な郊外の名所の名が恒雄の口から出た。そしてしまいには鎌倉附近を一日遊んで来ようということになった。
 然しその時孝太郎は一種の懶い疲労を感じて、白日の下に恒雄と一緒に歩くことが何とはなしに躊躇された。澄み切った空に満ちた光線や、黄色い銀杏の葉や、静かな野や海が彼の頭に映じたけれど、それを見る自分の心が何となく気付かわれた。
「富子さんは?」と何気なく聞いた。
「富子も一緒につれてゆきましょう。」と恒雄は答えた。
 富子が来た時、恒雄は孝太郎の顔をちらと見てこう云った。
「今日鎌倉に行かないか。」
「え? どうして。」
「ただ遊びに行くのさ。」
「私は……、」と富子は顔を上げて二人を見た。「あなた方二人で行っていらしったら。」
 三人の間に訳の分らない躊躇と不決断とが暫く続いた。
「私が留守居してあげましょう。」と孝太郎は云った。そして富子の方に向いて、「ねえ、行っていらっしゃい。」
「だって……。」と云いかけたまま富子は心持ち首を傾げた。
 そういう時富子の肉体は特に魅力を増した。彼女は頬から頸へかけて柔いふっくらとした肉がついている。それをけだるそうに左に傾げて、左手の指先で軽くそれを支えるようにするのは彼女のいつもの癖であった。その手指と頸の肉との接触にある感覚が漂っていた。
 それをじっと見ている恒雄の眼を見た時、孝太郎は一人苛ら苛らして来た。
「それに私は今日少し用がありますから。」と孝太郎は云った。
「それじゃ僕一人行って来ましょう。」と恒雄は眉をあげて云った。
 恒雄が仕度している間、孝太郎はまだ行こうか行くまいかと迷っていた。
 そしてぐずぐずし
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