ている間に恒雄は家を出て行った。
 その時、富子はほっとしたように孝太郎を見た。彼は何だかひどくそわそわとして、そのまま黙って二階に上ってしまった。
 一人になった時孝太郎はやはり行かなくてよかったと思った。もう身を動かしたくないような気分が彼のうちにあった。然し富子と二人で家に残ったことが深く彼の心を咎めた。それは恒雄に対する単なる思いやりばかりでなかった。こうして一人富子の姿を思い浮べるのが自分自身に対しても何となく憚られたのである。それにも らず[#「 らず」はママ]、彼はやはり階下《した》に居る富子のことを思い、また彼女と恒雄との間を思っていた。そしてふと或る時恒雄が興奮しながら語ったことが彼の記憶に浮んできた。
 ――それはある狂わしい晩春の頃であった。恒雄と富子とはよりそって、夕暮の空に流るる悩ましい雲を見ていた。富子は指先を男の手に嬲らせながら、そっと横顔を男の顔にあてた。
「耳を……。」と彼女は囁いた。
 恒雄は柔い女の耳朶を唇に挾んだ。
「もっと強く。」
 それで彼は強く歯でそれを噛んだ。
「いたい!」と女は云ってつと顔を引いた。それからちらと夫の顔を見た。彼女は何だか狼狽し、それから顔を赤くして俯向いてしまった。
 恒雄はじっとその姿を見た。「俺よりも妻の方がよほど処女《バージニチイ》に遠い!」と彼は思った。それから後で彼はそれを思い出す度毎に、妻の感覚のうちにはあの男との過去の回想が交っていると推定したのである。
 孝太郎は今その話を思い出して、ある嫌悪の情が起った。然しそれは富子に対してではなく、それを云った恒雄に対してであった。そしてまた今日恒雄と一緒に行かなかった富子に対して、わけもなく腹立たしいような思いをした。
 その午後富子と顔を合した時、彼は一人胸を苦しめながらこう云った。
「あなたはなぜ今日行かれなかったのです。」
「それじゃあなたは?」と富子は云った。
「行きたくなかったからです。」
「私も。」
 二人はそのまま其処の椽側に屈んだ。富子は訴えるような眼付を彼の横顔に投げた。
「もう何かを余り考えないで下さいね。」
「何にも考えてはいません。」孝太郎はやはり正面を真直に見ながら答えた。
「ねえ!」暫くして富子はほっと息をした。
「私ほんとにあなたに済みませんわね。」
「そんなこと仰言っちゃいけません。誰も悪いんじゃないんですから
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