も用をなさなかった。彼はただ彼女の唇に引きつけらるるの外はなかったのである。
 そういう自分をふり返ってみる時、彼はいつも恒雄の心を下から見上げるようにして覗いた。そしてやがては……と思った。然し何の「やがては」であろう?――彼はよく恒雄夫妻の間を知っていたのである。
 恒雄は孝太郎の近い親戚に当る。彼はまだ年若くて父の声望の御影でさる会社に重要な地位を占めてから、富子を迎えて別居したのであった。二人の間には甘い一年が過された。それからふとしたことで恒雄は、妻が以前に通じた男のあることを知った。それから彼はまた妻が今もなお秘めて持っているその男の写真を見た。彼はそういう彼女の心を悪んだけれど、彼女の美しい肉体を愛した。その憎悪と愛着とが彼を苦しめたのである。
 恒雄はある時孝太郎にこう云った。
「僕は妻に幾度も過去をすっかりうち明けてくれと頼んだのです。実際僕は妻《あれ》の過去をすっかり知りたかった、ほんとうに愛したいためにです。然し妻はいつも、もう忘れてしまった過去のことを今新らしく思い出さして下さるなと答えるきりです。それが僕を益々苛ら苛らさしたのです。けれど僕が妻のそういう心を憎むのは、その肉体を愛することを少しも妨げなかったのです。実際僕のうちには妻の肉体に対する愛着が深く喰い入っていました。そしてその愛着がなお僕を執拗にならしたんです。僕も君が云うように、僕を知らない前に妻が他の男を愛したことを責めるのではありません。然しその男は今も生きています、そして時々は妻のことを思い出すでしょう。妻もその男のことを時々思い出しているに相違ありません。よし離ればなれにせよ、二人の心が時々相顧みて過去を現在に生かしているという事実は、僕にとって堪えられない苦悶の種です。実際僕はそのために妻を責めながら、益々妻の心にその過去の記憶を蘇えらすようにしているのかも知れません。然しそれならばと云ってどうすればよかったのでしょう? 或は僕か妻か何れかが間違っていたかも知れません。と云って今になってはもうどうすることも出来ないんです。……あの男か妻か、どちらかが死んでいればよかったのです。」
 こう云って恒雄は顔面の筋肉をぴくぴくと痙攣さした。そして、「あなたが愛を信じるなら現在の愛着の上に新らしく未来を築き上げてゆかれる筈です。」と彼に云った孝太郎は、この告白をきいて彼の顔を見る
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