に二階から下りて来た時、茶の間で恒雄は新聞を見ていた。そして孝太郎に「お早う!」と云いながら、やはり新聞から眼を離さなかった。
 孝太郎も黙って別の新聞を手に取ってみた。その時彼は全く落ち付き払っている自分を見出して、少し意外な感じがした。
「何か面白いことがありますか。」と彼はきいてみた。
「何も無いようですね。何時も同じような記事ばかりで少し倦《あ》き倦きしますね。」
 それから彼等は、早朝の新聞紙の匂いも暖い夏間に限るものだというようなことを話した。
 孝太郎は暫くしてから座を立った。そして台所の方から出て来る富子に出逢った。彼は彼女のふっくらとした※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]《おとがい》と房々とした髪とを見た。
 彼女は一寸立ち留って孝太郎を見た。それから急に快活な調子で、「あちらに行らっしゃい。今お茶を入れますから。」
 彼は何故ともなくひどく狼狽した。そしてそのまま富子の後についてまた茶の間に帰った。
 彼等はいつでも朝食の前に紅茶を一杯のむことになっていたのである。孝太郎はその朝何だか新奇な気持ちを覚えた。そして紅茶をのみ自分の手付がまずいように思えるのが気にかかって、おずおずと恒雄と富子との方を見た。彼等は何時ものように自由にそして言葉少なに紅茶を飲んだ。
「今日は少し時間に遅れたようだ。」と云って恒雄は柱時計を見上げるようにした。
「そうですか。」
 こう云った富子の方を恒雄はじっと見やった。然し彼はそれきり何とも云わなかった。
 富子はまもなく立ち上った。その時ふと自分の方に向いた彼女の眼の中に孝太郎はちらと昨日の感覚を見出して喫驚《びっくり》した。彼女の眼はいつも何かしら肉感的な濡いを持っていた。

 孝太郎は次第に落ち付きのない日を過すようになった。何か息苦しいものが彼の心のうちに醸されてきたのである。
 彼は富子の悩んだ心を見る時、その求めて得られざる永久の不満を包んだ心を見る時、その前に手を合したいような気がした。どうかして柔い涙で彼女の心を浸すような慰安の言葉をかけてやりたいと思った。それが彼女のために、恒雄と二人のためではなくただ彼女の魂のためにいいであろう、と思った。然し彼のそういう言葉の下から、訴えるようなまたよりかかって来るような彼女の眼差しを見る時、彼はもうどうすることも出来なかった。其処にはもはや何の言葉も意志
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