かに胸をわくわくさせながら、恒雄を呪い、また富子を呪った。呪いながらも彼はいつしか富子の姿を眼の前に想い浮べていた。そしてそれに沈湎してゆくと共にある重苦しい恐怖を感じた。底知れぬ悩ましい淵を覗いたような気がしたのである。
ある寒い夜、孝太郎と恒雄とは外套の襟を立てて一緒に街路《まち》を歩いた。
その夜、富子がどうかして恒雄の薬瓶を壊したのである。三人は黙ってつっ立ったままつね[#「つね」に傍点]が畳を拭うのを見ていた。
「お薬が溢れますと御病気が早く癒るとか申しますよ。」とつね[#「つね」に傍点]が云った。
然し誰もそれに何の答もしなかった。そして恒雄と孝太郎とは云い合したように一緒に散歩に出たのである。
彼等は一言も言葉を交えなかった。互の心には、しきりに胸の奥へ奥へと沈みゆくような思いがあった。そしてただ歩くことそのことが、彼等の思いを軽く揺った。
薄い靄の立ち罩めた夜であった。軒燈の光りが寒く震えていた。そして月が朧ろに暗い空に懸っていた。行き交う人は皆堅くなって爪先を見つめながら足早に通りすぎた。
「僕はこの頃生活が厭《いと》おしうなって来た!」と恒雄は搾り出すようにして云った。
「あなたの心はこの頃静かではありませんか。」と孝太郎は一寸恒雄の方を見ながら、心にもないことを云った。
「静かと云えば静かですね、少くとも外面的には。」恒雄の眼はちらと光った。「然し何かが力強くじりじりと迫ってくるようです。」
「一体終局というものは一時にどさりと来るんでしょう。」
「然しそれまでの間が……。僕は人の行為にある一定の動機とか結果とかいうものを信じなくなりました。丁度濁った水の流るるようなものですね。そして運命などと云うものもそれを指していうんでしょう。」
「そうです。然し何かしら誰もみんな毎日些細なものを積んでいって、それが一緒に集って頭の上に重苦しいものを蔽い被せるようです。運命が……と思う頃には、もう後《あと》にも先にも恐ろしいものが見透しのつかないほど深く立ち籠めています。」
孝太郎はいつしか自分自身のことを口にしていた。
彼等は明るい電車通りを通ったり、狭い横町へ折れたりした。息が白く凍って流れた。
「この頃富子さんはどうかなすったのじゃありませんか。」
恒雄は一寸足を止めて孝太郎の方を見た。それからまた眼を地面に落して歩き出した。
「何
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