隅に眼をそらした。
けれど富子は暫くじっと坐っていた。それから座を立って薬瓶を黙って恒雄の前に置いた。薬をのむ恒雄の手が少し震えた。
「僕は今日何だか寒気がするから先に失礼します。」と彼は云った。それから彼について立とうとした富子に、「いいよ。」と云った。富子はじっと夫の顔を見たが、そのまま身を動かさなかった。
「つね[#「つね」に傍点](女中の名)が仕度をしています。」と彼女は恒雄の後から呼びかけた。
恒雄はそのまま室を出ていった。
孝太郎は自分の前に坐っている富子を見守った。彼女のうちには悲愴な忍苦の影があった。彼女は殆んど息を潜めたように黙っている。然し孝太郎はまた彼女の頬から頸へかけての柔い肉体を見た。それから赤い肉感的な多少低い鼻の形とを。そしてその堅い内心と、少しも窶れの見えない美しい肉体とが、彼にある惑わしを投げかけた。
孝太郎は心苦しくなって来た。そしておずおずしながらこう云った。
「あなたはどうしてそう堅く堅く自分の心を秘めていらるるんです。」
「え、私が?」
「なぜ物を隠すようにして被居るんです。」
富子は顔をあげて孝太郎を見た。彼女は急に夢からさめたように狼狽の色を浮べた。孝太郎も何とはなしに胸の騒ぎを禁じ得なかった。そして自分の狼狽と富子の狼狽とは意味のちがったものであるという明かな意識が、なお彼の落ち付きを無くした。
「私はもう何にも、誰にも云うまいときめています。」と富子は云った。
富子の顔には、緊と両手を胸に握りしめているような表情があった。そしてその奥に何か解くべからざるものに触れて、孝太郎は悚然とした。
「あの一寸……。」と暫くして云いながら富子は恒雄の居間の方へ出て行った。
富子が出ていった後、孝太郎は何とはなしに立ち上った。自分で自分の身をどうしていいか分らないような思いが彼を捕えた。そしてただぐるぐると室の中を歩き廻った。
間もなく富子が静に入って来た。
「何をそんなにつっ立って被居るの。」と彼女は其処に立ったまま云った。
孝太郎は富子の束髪の下にぼんやり輝いている眼を見た、輪廓が長い睫毛にぼかされた黒い濡っている眼を。
「もう寝ようかと思って……。」と彼は平気を装いながら答えた。
「お休みなさい。」とすぐに富子が云った。
孝太郎は自分の室に一人になった時、云いようのない寂寥と苛ら立たしさとを感じた。彼は何
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