ない模糊たる霧と懶い疲労とを覚えた。
 その時富子が静に梯子段を上って来て黙って彼の前に立った。
「どうしたんです。」と彼は云った。
「あなたこそどうなすったんです、そんな顔をして。」
 孝太郎はただ何とはなしに片手の掌《ひら》で額をなでた。それから椅子を下りて、富子と並んで足を投げ出した。そして何時までも黙っている富子を見て、妙に堅くなってしまった。
「あなたは近頃どうかなすったのではありませんか。」と富子が暫くして云った。
「どうしてです。」
「いえただ一寸そんな気がしたものですから。」
「あまり何やかやお考えにならない方がいいんです。考えるとだんだんむつかしくなるばかりですから。」
「むつかしいことなんか私は考えはしませんけれど……もう何だか苦しくなって来ました。」
「あなたは余り外のことばかり見て被居るからいけないんです。自分の心をお留守にしてはいけません。」
「それをあなたは私に……、」と云いかけて富子は孝太郎の眼の中を見入った。
「いいえあなたは御自分におし隱して被居ることがあるでしょう。あなたのうちにはもう、はじめにあなたが悩み悶えられたものが深く喰い入っています。あなたと恒雄さんとは互に心と心と相反して立っていられながら、あなたには恒雄さんが無くてはならないものになっているし、恒雄さんにはあなたが無くてならないものになっています。勿論そうあるのが本当でしょうけれど、あなた方は全く普通と違った悲惨な仕方でそうなられたのです。あなた方は全く出立が間違っていた。」
「それは私一人の罪ではありません。」
「でもなぜあなたは初めに過去を恒雄さんにうち明けてしまって、冷たい反抗の代りに熱い涙を示されなかったのです。私はずっと前に度々それをお勧めしたじゃありませんか。」
「恒雄は一度きいたらそれを許すような男じゃありません。あんな……あんな乱暴なことをする人ですもの。」
「それはあなたからも挑むんでしょう。」
「え!」
「あなたの高慢な執拗な眼付が恒雄さんをあんなにしたんです。……それに、自ら知らないであなたもそれを求めていらるるんです。」
 富子は心持ち蒼ざめてきた。彼女は眉のあたりに細かい痙攣を漂わしながら云った。
「だってその後《あと》で私がどんなに苦しんでいますか……。」
 孝太郎は突然喫驚したような気持ちを覚えた。今迄の言葉は富子に対してよりも寧ろ自分自
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