身の心に向って云ったもののような気がしたのである。彼はじっと富子の顔を見た。
「もう過去のことは云っても仕方がありません。」
「ではどうしたらいいんでしょう。」
「どうするって……。」
「私もう、」と云いかけて富子は一寸息をついだ。「もう何もかも、私とあなたのこともすっかり恒雄に云ってしまおうかと思っています。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
「もう仕方がありませんわ。」
 孝太郎は何かにぐっと突き刺されたような気がした。凡てをかまわず投げ出したいような気分と、凡てから免れたいというような気分とが、彼の胸の中で渦巻いた。
「どうなさるおつもり?」
「どうって私には……。」
「もう仕方がありませんわ。」と富子はくり返した。
「私はまだ……。」と孝太郎は云った。そして頭の中で、「そんなことは考えていません。」と云った。
 富子は黙って孝太郎の眼の中を見入った。そしてそのまま、真直にしていた身体を少し斜にした。彼女の堅くなっていた肉体は急にしなやかに弛んできた。その眼には人の心を魅惑せねば止まない本能的な光りがあった。唇が殆んど捉え難いほどにちらと動いた。ふっくらとした頬の皮膚には滑らかな感覚が漂っている。
 孝太郎はつと手を延して彼女の手を取った。温い触感が彼の全身を流れた。とそれが突然彼の胸をぎくりとさした。彼は喫驚して女の顔を見た。怪しい鋭い眼が其処にあった。
 孝太郎は我知らず急に立ち上った。頭の中で何かがわやわやと立ち乱れた。そして彼の室の中を歩き廻った。
 二人の間にちぐはぐな沈黙の時間がすぎた。午後の弱い日の光りの障子に写している木の枝が、ちらちらと揺れていた。
「あなたはまだ決心して被居らないのね。」と富子が静に云った。
「私には分らない。」
「何が?」
「何にも。」
 それきり二人はまた黙ってしまった。富子はじっと畳の上を見つめていた。そしてやや暫くして彼女は、孝太郎の方は見ないで口早にこう云った。
「あなたは私をどうなさるおつもりです。」
「あなた私に何を求めるんです。」と孝太郎はすぐに我知らず反問した。
 富子はぶるぶると肩を震わした。と間もなく彼女の眼から大きい涙がぽたりと膝の上に落ちた。それから彼女はじっと坐ったまま止度なく涙を流した。
 孝太郎は物に憑《つ》かれたように茫然として富子の前に立った。何かが彼のうちに平衡を失していた。
 彼は身を
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