がね。」
「そうですね。」
然し妙な沈黙が一寸彼等の間に落ちて来た。と急に恒雄は何かしきりに袂の中を探しはじめた。
「あそうだ……一寸急な手紙を一つ書くのがあったっけ。」
恒雄は独り言のようにこう云って自分の書斎に入ってしまった。
然し孝太郎はもう余り恒雄のことを気にかけてはいなかった。彼は自分自身に大きい問題を持っていたのである。
富子の様子が次第に変って来た。彼女は孝太郎に対しても大層言葉少なになった。然し彼女は彼の心をじっと探り当てようとでもするかのようであった。時々そっと覗くように彼の方を見る彼女の眼がそれを示していた。孝太郎はいつもそういう彼女の眼差しの前にたじろいだ。
孝太郎はよく自分の書斎の机に靠れて、日のさした障子の紙を見つめながら、富子と自分との間を考えてみた。進むか退くかどちらかに決定しなければならない問題が其処にあった。富子が暗々裡にその解決を迫っているのが彼にはよく分っていた。それでもいつまでも愚図愚図と引きずられるような日が、二人の間に過ぎた。
孝太郎は男女の恋愛、殆んど盲目的な不可抗な力に支配せられて男と女との心が結びつく力強い恋愛、そういうものを信じていた。其処から男と女と二人のほんとうの生活は初ってゆかなければならないと思っていた。そして彼は自分に対してそういう女が世界に一人は必ずあると信じていた。恒雄夫妻の間を見る彼の眼が、何処か一方に偏しているのは其処から出でた結果であった。そしてその唯一の女は固より富子ではなかった。
その上彼には富子の本体がよく分らなかった。いつぞや彼に「永久の友達」を願ったような彼女と、恒雄の憤怒の下の執拗な彼女とは、二つのものとして彼の眼に映じた。それからまた彼女の肉体を遠心的だと考え、彼女の心を求心的だとも考えた。彼がその時々に触れた富子の姿は、それ全体が一つの統体を為さなかった。
それなら彼は何故に富子の唇に引きつけられてきたのであろうか? それは単なる同情と慰安との行為であったであろうか? 男女の唇はさほど安価なるものであるだろうか? 其処まで考えてくる時、彼の心にはすぐに富子と恒雄との性交が眼の前に浮んだ。そして強い嫌悪と腹立たしさが彼の頭脳をめちゃくちゃにかき乱した。
孝太郎は彼の所謂サロンの寝椅子にねそべって、また同じことを幾度もぐるぐると考え直してみた。そして終りには訳の分ら
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