「それでいいんです。」
「何も君に関したことじゃない。」
 二人はそれきり堅く口を閉じた。彼等の上には陰凄な夜の空があり、下には濁った水が澱みながら動いていた。そして遠くに、水面に反映する赤い灯が揺ぎもなく浮んでいた。
「僕はもう帰ります。」と恒雄が云った。
 孝太郎は、その反感と軽侮とに拘らず、何か怪しい糸で引きつけらるるかのように、恒雄の後に黙然として従った。
 家に入った時、女中が玄関に彼等を迎えた。そして家の中の空気と電燈の光りとに、二人の心は何とはなしにほっとした。
「お休みなさい。」と二人は云った。
 孝太郎はすぐに冷たい床の中に入った。そして頭から蒲団を被ってしまった。
 彼の頭に一杯もやもやと立ち罩めていたものが次第に晴れていった。そして先刻恒雄と共に表に出る瞬間に見た富子の顔がちらと浮んだ。彼はそれを追っかけるようにして思い浮べてみた。其処には自分自身に対するまた富子に対する、云い知れぬ腹立たしさがあった。彼は自分自身の何かを富子の掌中に握られているとはっきり感じた。そして彼女の肉体とその高慢とが、彼に漠然とした憤りと恐怖とを与えた。
 彼はもう恒雄に対して何等の反感も軽侮も持ってはいなかった。彼は恒雄を自分と親しい所に置いて見た。そして……恒雄と富子と床を並べた姿を思い浮べて凝然とした。――恒雄と富子とは夫婦である。悩みながらも彼等は永久に夫婦の生活を破りすてることが出来ないであろう。
 孝太郎は心が苦しくなって来た。彼は眼を閉じて凡ての想像を閉じてしまいたくなった。重苦しい動かす可からざるものに突然ぶつかったような気がしたのである。
 彼は大きく眼を見開いて何かを睥みつめるようにした。それから急に顔、そして眼を蒲団に押しあてた。胸づまるような涙が眼に溢れてきた。

 孝太郎はなるべく恒雄と富子との前を避けるようにした。彼等の前に落ち付いてじっと見つめている眼を置くのが、何となく自分自身にもすまないように思えたのである。
 それでも恒雄は彼に他愛ない様子を見せようとしているらしかった。然しわざと装った平気が却って往々彼を狼狽させることが多かった。そしてそれが二人の間にある距てを置くように見えた。
「気持ちのいい晩ですね。」とある爽かな夜、彼は孝太郎に云った。
「ええ、」孝太郎は彼の顔を見上げた。
「こんな晩はぶらぶらと当もなく歩き廻るといいです
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