装った言葉を発してみたけれど、すぐに恒雄と富子との緊張した沈黙に感染して黙り込んでしまった。
「葡萄酒を少しくれないか。」と恒雄が云った。
富子は黙ったまま立ち上って壜とグラスとを持って来た。それから女中の手から水菓子の盆を受け取って恒雄の前に置いた。そして「はい。」と云った。
恒雄はその言葉に眉をぴくりとさした。それでも黙ってグラスを干した。
「どうです。」と恒雄は孝太郎にもそれをすすめた。
「今御飯を召し上ったばかりなのに……。」と富子がはじめて口を開いた。
孝太郎は苦しくなってきた。
「妙にむし暑いような晩ですね。」と彼は云って、そっと座を立った。その時ふと富子の顔を見たら、冷い瞳の光りが彼の胸を射た。
孝太郎は障子を開けて縁側に出た。冷たい空気が彼の熱した額を流れた。それは静かな空虚な夜であった。暗い物の隅々が妙に透《すか》し見られた。彼は張りつめたままの気分で長く其処に立ちつくしていた。
その時、がらがらっと物の投り出されるような音がした。孝太郎は駭然として茶の間に走り入った。
颶風のようなものが突然彼の頭に渦巻き去った。彼は息を止めて其処につっ立ってしまった。そして次第にはっきりと室の中の有様が彼の眼に映ってきた。
葡萄酒の壜とグラス盆とが其処に投げ出されていた。だくだくと壜からこぼれた葡萄酒は赤い血のように静に畳の上を滑って流れていた。富子はその前に蒼白な顔をして、それでもじっと坐ったまま室の片隅を見つめている。その上に充血した眼を据えて石のように堅く恒雄はつっ立っている。彼等の間には今にも張り切れそうな緊張した沈黙と反撥とがあった。そして何かがじりじりと圧《お》し潰すように迫ってくるがようであった。
「どうしたんです!」と孝太郎は叫んだ。
その声は急に何かを煽るように響いた。恒雄は肩のあたりをぴくと震わした。孝太郎は自ら自分の声に懼然とした。そして殆んど本能的にこう云った。
「外に出ましょう。」
恒雄は二三度頭を強く横に振った。それからしかとした調子で孝太郎に応じた。
「外に出ましょう。」
二人はそのまま表に出た。その際孝太郎はふとふり返って富子の顔を見た。彼女はその堅く引きしめた顔の眉一つ動かさなかった。そして何かを挑むような高慢な眼が、動物的な冷たい光りに輝いていた。
外に出ると彼等の緊張し興奮した精神はそのままに堅く凝結し
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