が残る筈だと思っています。」
「君はそれを広い愛というものよりもっと狭くて深い所謂恋愛というものにもあてはめようと思っているんですか。」
「私の恋愛観は別の問題です。然しともかくもあなたの富子さんに対する態度は其処から初めるのが正当だろうと思いますが。」
「或はそうかも知れません。然し僕の妻に対する強い愛着をどうしましょう。現在の妻のうちにある彼女の過去をどうしましょう。それから二人の間の冷たい反目をどうしましょう。今になってはもう後戻りの出来ない位、それらのものが深く根を下しています。僕はまあ云ってみれば美しい栗の毬《いが》を胸に抱いているようなものです。もう離れて見れないほど強く密接に抱いているんです。それでも畢竟は僕の胸と栗の毬とは相容れない別々のものなんです。何れかが壊れなければ……。」
「それでは毬を壊して中だけを抱くだけでしょう。」
「それには僕と妻と全く別々の離れたものにならなくては……。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
二人は黙って顔を見合った。彼等の興奮した頭に不祥な影がちらっと閃き去った。
孝太郎はつくづくと恒雄の顔を見守った。その心持ち下脹れの顔の輪廓と、多少角ばった※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の筋肉と強い眼の光とを彼は見た。
「一体それでどうなさるおつもりです。」と孝太郎は云った。
恒雄は若《にが》い表情をして遠くの方を見つめた。
「やはり僕と富子とは夫婦ですからね。」
孝太郎は何かに冷りとして黙し込んでしまった。彼は顧みて、自分と富子と、それから恒雄との間を思ってみた。そして其処に何か調子外れたような不安を見た。
「もう下らない話は止しましょう。」と暫くして恒雄が云った。彼はきっと唇を結んで、右手の拳でじっと畳の上を押えつけていた。
彼等はそれから何かつまらぬことを暫く話していた。然し妙に冷たい隔《へだた》りが二人の間にあった。
時が次第に冷やかなものを三人の間に持ち来した。彼等は何とはなしにただじっと互の心を探るように黙ってしまうことがあった。そして孝太郎は一人で、どうにかしなければ、どうにかしなければ……と苛ら立った。
或晩皆で茶の間に集った時、富子の顔には執拗な高慢の影がさしていた。そしてその凡てを反撥せんとする冷静と、恒雄のじっと動かない瞳とが、相互にある反映をし合って昂じてきた。で孝太郎は勉めて快活を
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