とはうるさくて。」
 それから二人は暫く種々な世間話をした。けれど孝太郎はそうしているのが次第に不安になって来た。恒雄が何かを押し隠すような風にしているのが気にかかったのである。それで直接にこう尋ねてみた。
「何だか今日は少し苛ら苛らしていらるるようじゃありませんか。」
「ええそうかも知れません。」と恒雄は平気で答えた。
「何か御心配のことでも?」
「やはりいつもの問題なんです。僕は常にそればかり考えさせられるようになったんです。そして次第に悲しい結論に達してきます。」
「結論だと仰言ると?」
「さあ何と云ったらいいですかね。……まあ一口に云えば僕は到底富子と根本から相容れないということです。」
「それは無理にそういう風に考えようとなさるからではないでしょうか。実際あなたは余りに富子さんの過去に拘泥しすぎていらるるようです。」
「いやそうでもないんです。と云うのは、僕は今迄と別な方面から考えたんですがね。実際僕は今迄ただ妻をじっと見ていたきりで、自分の方はお留守にしていたんですね。それも妻というものに余り期待を大きく持ちすぎていたからでしょう。僕の理想は現実から美事に裏切られてしまったのです。それを僕はなぜだなぜだと云って妻に責めまた自分に責めたんです。現実の姿に向って何故だと問うのは過去を現在に返せというのと同じに馬鹿げたことなんですね。で僕はもう妻に向ってなぜ僕の理想通りでないのかと責めはしませんでした。その代りに富子という者と僕という者とを別々に引き離して見てみたんです。すると僕と富子とはどうしても相容れない二つのものだと思うようになったんです」
「するとあなたは全く孤独を見出されたわけですか。」
「いや全くの孤独というものを僕は信じません。実際僕は自分を見る時、自分のうちに妻の……そうですね、匂い、息、いや兎に角何かを見出すんです。僕のうちには妻《あれ》の肉体が深く喰い込んでいます。それにどうでしょう、僕の心と妻《あれ》の心とは全く背中合せに反対の方を向いているんですからね。」
「それはあなたが富子さんの心に触れる場所が悪いという故じゃないでしょうか。どんな人の心にも屹度ある方面から見れば温い柔い部分があると私は信じますね。そして其処からその人の心に触れる時には、手を合わしたいような敬虔な心持ちが起る筈です。そういう態度を押し進めてゆくと、しまいには愛ばかり
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