立ち上る。時彦のような細そりした体だが、時彦がひどく長身なのに比べて、これはばかに背が低い。透いて見えるような服をまとっている。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――この煙吉から見ると、みんな可笑しいや。正夫君に未練たらたらで、そして正夫君を自分のものにしようとかかっている。俺はそんなことは企らまないよ。どうせ世の中は成るようにしかならないものだ。正夫君と別れようとどうしようと、まったく平ちゃらさ。正夫君だってそうだろう。
[#ここから2字下げ]
正夫は顔を挙げて、煙吉を不思議そうに眺め、皮肉な薄ら笑いを浮べるが、それにも拘らず、溜息をついて、また顔を伏せてしまう。その方を、煙吉はちらりちらり見やって、腕組みをする。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――正夫君、君はずいぶん煙草が好きなようだが、吸いすぎると体に悪いよ。煙草は口臭を去るとか、空腹の助けになるとか、考えごとをまとめるとか、いろんなことが言われてるが、それも適度な場合だけだ。吸い過ぎると、食慾が無くなるし、注意力が散漫になるし、記憶力が減退する。この俺が言うのだから、間違いはないよ。口臭を去るどころか、正夫君、君の口はひどく臭くなってるし、舌はざらざらに荒れてるし、歯は脂で真黒だ。少し慎しんだらどうかね。それに、ニコチンの害毒はひどいからね。
[#ここから2字下げ]
煙吉は向きを変えて、そばに突っ立ってる者たちを眺める。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――正夫君をあんな風にしたのは、お前たちのせいだよ。酒を飲んでると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。恋愛のことを考えてると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。何もせずにぼんやりしてると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。あまり吸い過ぎて、正夫君、見たところ、どうも健全とは言えないよ。
――そこで、どうだろう、罪滅しの意味で、正夫君に何か贈物をしようじゃないか。第一、ここにこうしてじっと突っ立ってるのは、気が利かんね。俺はじっとしてるのが嫌いだ。動き廻りたいよ。何か面白いことはないかなあ。遊びごとはないかなあ。いや、それは後のことだ。先ず正夫君への贈物だ。どうだい、賛成しないかね。
[#ここから2字下げ]
煙吉は順々に呼びかける。相手は返事と共にこっくりこっくり二回頷く。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――酒太郎はどうだね。
酒太郎――よかろう。賛成だ。
煙吉――愛子はどうだね。
愛子――いいわ。賛成よ。
煙吉――時彦はどうだね。
時彦――よかろう。賛成だ。
煙吉――正夫君、みんなそれぞれ、君に贈物をするよ。珍らしくもなかろうが、心こめた品だから、立ち上って、お辞儀をし、鄭重に受け取るんだよ。
[#ここから2字下げ]
奇怪な行列が始った。煙吉を先頭にして、一同、ゆっくりと正夫の方へ進んで行く。だが正夫は、ちらと一同を見て、卓につっ伏し、両の掌で額をかかえ、息を殺したように動きもしない。その代り、円卓の正面に坐っていた議一が、立ち上って、一同の後を見送る。
煙吉は正夫に近づき、正夫の様子を眺めて、ちょっと立ち止るが、首を振って、また歩き出す。いつのまにどこから取り出したのか、一同はめいめい、片手に品物を持っている。そして正夫の前に、煙吉は煙草の缶を捧げる。酒太郎は酒瓶を、愛子は蜂蜜の瓶を、時彦は鉄側の時計を、順次に正夫の前に捧げる。
正夫は突っ伏したまま身じろぎもしない。それには構わず、煙吉を先頭に一同は、踊るような足取りで、正夫のまわりを、一回、二回、三回と、ぐるぐる廻って、元の円卓の方へ戻ってゆく。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――これで、正夫君への贈物は済んだ。
愛子――こんどはあたしたちも、少し御馳走になりたいものね。
酒太郎――そうだ、こちらも酒盛をしよう。
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酒太郎が酒瓶を出すと、一同はそれぞれ、正夫に与えたのと同じ品物を取り出す。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――おい時彦、時計なんか仕様がないじゃねえか。もっと景気のいいものを出せよ。
[#ここから2字下げ]
時彦はにっこり笑って、時計を両の掌に包みこみ、その掌を開くと、まるで奇術のように、時計は沢山の小さな丸い玉になっていた。半透明の丸玉で、恰も真珠のようだ。それを彼は、卓上にざーとあける。
[#ここで字下げ終わり]
時彦――食べてみろ、うまいから。その代り、断っておくが、これを食べると、なかなか眠られなくなる。それでもいいか。
酒太郎――いいとも、どうせ夜明しだ。
[#ここから2字下げ]
一同は真珠めいた菓子に手を出し、かじってみる。うまいうまい、という歎声。そして酒を飲み始める。酒太郎はなお、酒の小瓶を幾つも出して、皆に勧める。一同ラッパ飲みをする。
間。
次第に酔いが廻ってくる。手当り次第に、酒を飲み、煙草をふかし、真珠菓子をかじり、蜂蜜まで嘗める。――その乱雑な光景を、議一は少しわきの方に突っ立ったまま、茫然と眺めている。
[#ここで字下げ終わり]
愛子――あんた、そんなところに突っ立ったきりで、どうしたのよ。ばかみたい。こっちい来て、仲間にはいりなさいよ。構わないわよ。
[#ここから2字下げ]
議一はおずおず近寄って、酒盛の仲間にはいる。そして彼一人だけ、椅子に腰を下す。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――少し動きたくなった。歌でもうたいたくなった。お前たちはどうだい。
時彦――よしきた。元気にいこう。
[#ここから2字下げ]
時彦が音頭を取って、ラ・マルセイエーズを歌い出し、一同それに和して歌いながら卓を叩いて拍子を取る。議一ひとり黙っている。
[#ここで字下げ終わり]
愛子――あんた、なぜ歌わないの。
議一――僕は、そんなバター臭い歌は知らないんだよ。
愛子――まあ、フランスの国歌じゃないの。そんなら、何を知ってるの。
議一――そうさなあ。ノーエ節ぐらいなもんかな。
愛子――ノーエ節……。ああ、富士の白雪というあれでしょう。
酒太郎――宜しい、こんどはあれにしよう。ぐるぐる廻って、際限なく歌える。この円卓みたいなもんだ。
[#ここから2字下げ]
一同はノーエ節を歌いながら、円卓のまわりを踊るように歩き始める。歌は終りからまた初めへと連続し、彼等は円卓のまわりを何回も廻る。――ただ議一だけ、腰掛けたままでいる。
ふと、時彦は議一の側に立ち止って、その顔を覗き込む。
[#ここで字下げ終わり]
時彦――やあ、これは不思議だ、俺のあの菓子を食ったのに、この男は居眠りをしている。眠られる筈はないんだがなあ。
[#ここから2字下げ]
皆そこに集まってくる。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――眠られなくなるって、本当かね。
時彦――俺は嘘は言わない。
煙吉――それじゃあ此奴、狸寝入りか。
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煙吉は議一の背中を殴る。他の者も一緒になって殴る。議一は眼を覚して、あたりを見廻す。
[#ここで字下げ終わり]
煙吉――お前、ほんとに眠ってたのか。
議一――自分自身がどっかへ、すーっと消し飛んでゆくような気持ちだった。そして夢を見た。
煙吉――どんな夢だ。
議一――河の深い淵だった。上手の方は、浅い瀬で、きれいな水がさらさらと流れていた。その水が流れ下って、深い淵になっている。心のうちで、その淵を見つめていると、淵はだんだん深くなる。底知れず深くなる。そして水は濁り黒ずんで、澱みきっている。底の方がどうなっているか、見当もつかない。たぶん空気も通っていないんだろう。水は腐ってるんだろう。魚も寄りつかないらしい。そうした深い淵が、ずっと下流まで続いていた。淵の一方は高い急な崖で、僕はその崖の上にいた。崖から淵の方を覗き込むと、恐ろしい力で吸い込まれるようだった。否応なく、運命的に、僕は淵に落ち込むことになっていた。僕は一生懸命に抵抗した。崖縁にしがみついた。だが、ずるずる滑り落ちてゆく。どうにもならない。そら、もうすぐ淵だ。上からは石ころが落ちてくる。どんどん落ちて来て、背中に当る。もう駄目だと思った。そして眼が覚めたんだ。
煙吉――ほほう、そんな夢か。それじゃあお前は、俺たちに感謝していいよ。俺たちのお陰で、お前は淵に落ち込まなかったんだからな。
議一――夢の中のことだよ。
煙吉――夢にしてもさ。俺たちがお前を叩き起してやったんだ。
議一――魘されてでもいたのかい。まったく、あの深い淵はいやだった。胸がむかつくようだ。
酒太郎――夢の話なんか止せよ。胸がむかつくようなら、もっと酒でも飲め。
愛子――この真珠菓子を食べたのが、いけなかったんじゃないの。
時彦――ばか言うな。これを食べたくせに[#「食べたくせに」は底本では「言べたくせに」]居眠りなんかするから、いけないんだ。然し、この男はちょっと変ってるな。夢の話も捨てたもんじゃない。ちっとばかり、気骨を持ってるようだ。
酒太郎――なあに、気骨もくそもあるものか。さあ、飲め飲め。
[#ここから2字下げ]
議一はぼんやり酒瓶を取り上げる。一同も再び飲み食いを始める。席は乱雑になる。
間。
不思議なことが起った。議一を除いて、他の者たちは、後ろから髪の毛でも引っ張られるかのように、時々、手を挙げて後頭部を打ち払う仕種をし、振り向きもする。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――誰だ、俺の髪の毛を引っ張るのは。
煙吉――誰だ、髪の毛を引っ張るのは。
愛子――だめよ、髪の毛なんか引っ張っちゃあ。
時彦――いたずらは止せよ。
[#ここから2字下げ]
その都度、互に顔を見合せて、怪訝な面持ちになる。
[#ここで字下げ終わり]
時彦――どうもおかしいぞ。俺たちは誰も、ひとの髪の毛なんか引っ張ってはいないね。そして誰からか引っ張られてる。振り向いても誰もいない。然し引っ張られてることは確かだ。これは、酔っ払ったせいじゃない。何かある。奇怪極まる。
愛子――なんでしょうね。あたしなんだか怖くなっちゃった。
酒太郎――なあに、こんどやったら、俺が引っ捕えてみせる。
煙吉――世の中には理外の理ということもある。お化じゃないか。お化だったら面白いぞ。お化、出て来い。
[#ここから2字下げ]
何かの気配を感じて、警戒するかのように、一同は一つ所に寄り集まる。
一同の正面、つまり正夫を背後にして円卓の一端に、ぼんやりと人影が現われる。白髪の老女で、薄鼠色の和服を着ているが、全体がぼやけて形体は定かでない。――このあたりから、正夫は顔を挙げて、やはり卓上に頬杖をついているが、眼は伏せず、一同の方をぼんやり眺めている。
[#ここで字下げ終わり]
老女――お前さんたちの髪の毛を引っ張ったのは、このわたしだよ。なあに、ちょっとした悪戯さ。気味わるがらなくてもいいよ。悪意はないんだからね。
――お前さんたちには、古い馴染みだ。わたしの夫、正夫の父がね、やはり正夫のようだった。いえ、正夫が父に似たんだろうよ。父の方はたいへんな酒好きで、とても正夫どころではなかった。毎日朝酒を飲んで、昼酒を飲んで、そしてまた寝酒を飲んだものさ。もっとも、それは亡くなる前のことだがね。煙草は始終口から離さなかったよ。若い時から女道楽で、老いてますます盛んな方だった。どこやらに、落し胤も幾人かある筈だ。そんなだから、したがって懶け者で、まとまった仕事をしたこともなく、ぶらぶら遊んでばかりいたよ。そして肝臓と腎臓とを悪くして、亡くなってしまった。
――そんな男だけれど、ただ一つ取り柄があった。物にこだわらないことだよ。恬淡というか、無頓着というか、一つのものに執着することがなかった。酒を飲んでも酒に呑まれることはなかった。煙草をいくら吸っても、煙草に吸い込まれることはなかった。女好きではあったが、女に丸めこまれることはなかった。その点を、わたしから見れば偉いと思うよ。何事も、心から執着しなければ本当のことは分らない、と言われてるけれど、また逆に、執着したために分らなくなることも、しばしばあるからね。
――そこへゆくと
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