たぞ、卑怯者とね。
――然し、君が如何に卑怯者で自信家で懶け者であり、そしてこの俺を無視しようとしても、そうはいかないぞ。結局は、俺の一歩一歩に、時間の一秒一秒に、ついて来なければならない。決定的な鉄鎖でつながれているんだ。いくらじたばたしようと、いくら※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]こうと、どうにもならないぞ。
――だから、いっそのこと、俺に従順になってはどうだ。そっぽ向かないで、俺の方をじっと見るがいい。ずいぶんと可愛がってやるよ。そしたら君は、昂然と頭をもたげて歩けるだろう。如何なる場合にも自由に口が利けるだろう。さあどうだ、俺に素直について来い。そっぽ向かないで、俺の方にだけ眼を向けろよ。
[#ここから2字下げ]
時彦は正夫の注意を惹こうとするかのように、卓をことこと叩く。だが正夫は、顔を伏せたきりで、前よりも一層項垂れて、額を両の掌でかかえている。時彦のそばから、女が一人立ち上る。赤い服装。体も四肢もへんにくねくねして、骨の代りにぜんまいでもはいってるように見える。
[#ここで字下げ終わり]
愛子――愛子にも言い分があるわ。あんた一人で正夫さんを独占しようとしても、そうはいきませんよ。ねえ、正夫さん。
[#ここから2字下げ]
正夫は顔を挙げて、不思議そうに愛子を眺め、そしてまたすぐに顔を伏せてしまう。
愛子は正夫の方に片腕を差し伸べ、人差指と中指とを二本差し出し、その手をふらふらと打ち振る。
[#ここで字下げ終わり]
愛子――正夫さん、正夫さん……愛子の方を見てごらんなさい。そっぽ向くもんじゃないわ。
[#ここから2字下げ]
愛子は突然笑いだして、腕を引っこめ、両手を腰にあてがい、時彦と同じような姿勢を取る。ただ、時彦は棒みたいに突っ立っているが、愛子は始終、体をくねくねと動かす。
[#ここで字下げ終わり]
愛子――正夫さん、時彦なんかに騙されちゃだめよ。あんたはすぐ人に騙されるたちだからね。騙されるなら、あたしに騙されなさい。だって、あんたは愛子が好きでしょう。いつも愛子、愛子って、あたしのそばにつきっきりじゃないの。あたしが外に出かけて、帰りが少し遅くなると、あんたはごろりと寝ころんでいて、声をかけても、すねたように返事をしない。そのくせ、眼には一杯涙ぐんでるわね。愛子がいないのが淋しかったんでしょう。その涙を見ると、あたしほんとに済まなかったと思うわ。外に出ても、あんたがどうしてるか気にかかって、おちおち用も達せやしない。
――夜寝ても、あんたはいつも、愛子の顔を自分の方に向けさせるわね。あちら向きになると、頸筋をくすぐって、こちら向きにならせる。そして、あたしの額にあんたの額を、あたしの鼻にあんたの鼻を、こすりつけてくる。ちっちゃな子供みたいね。そのくせ、あんたはほんとに眼ざとい。あたしがちょっと身動きすると、あんたはぱっちり眼を開いて、あたしの顔を見てるでしょう。いったい、あんたはほんとに眠ることがあるのかしらと、不思議に思うことがあるわ。一緒の布団に寝るのがいけないのかも知れないわね。
――それでいて、あたしなんだか、気持ちがしっとりと落着かないの。あんたが愛子をほんとに好きだってことは、そりゃあ分ってるわ。分ってるけれど、ほかにまだ何かある。何か冷りとするようなものがある。あんたのうちにあるのよ。あの「黎明」のために、人の出入りが多いことなど、あたしは何とも思ってやしません。月三回のあんなちっぽけな新聞なんか、止めてしまったらどうかと、思わないこともないけれど、それも男の仕事のことだから、さほど気にはしないわ。また、あの女事務員にあんたが色目を使ってるともあたしは思いません。それから、貧乏なこともあたしは平気です。金があったとて、どうせあんたは酒を飲んでしまうにきまってるわ。そんなこと一切、あたしは何とも思わないけれど、別に、冷酷なものがあんたのうちにある。
――あたしがにこにこした顔をしていると、あんたはいい気になって、酒を飲んで酔っ払ってしまう。あたしがちょっと不機嫌な顔をしていると……誰だってちょっと不機嫌なこともあるものよ……するとあんたは、ぷいと席を立ってしまう。だからわたし言ったでしょう。愛子がもし病気にでもなったら、あんたはどうなさるかしら。きっと放ったらかして、看病なんかして下さらないでしょう。そう言うと、あんたは苦い顔をして、黙ってしまったわ。黙ってるのは、そうだという返事と同じことよ。つまりあんたには人情味がない。人間らしい温かさがない。
――これは別なことだけれど、新聞記事のことや、映画のことや、世間の噂など、つまらない話を時々するでしょう。そんな場合、あんたは、それはこういう気持ちなんだろうと、心理的な批判はするけれど、よい人だとか、悪い人だとか、ひどい人だとか、そうした道徳的な批評は一切しないわね。その上、道徳なんか下らないことだと、口癖のように言ってるでしょう。だけど実は、一般庶民の道徳というものは、人情を元にしたものだわ。そう言うと、あんたはさもおかしそうに笑ったでしょう。
――あんたという人は、実に冷酷なエゴイストだわ。そういう面に触れる時、あたしはいつも冷りとします。そしてあんたからつきまとわれればまとわれるほど、なにかごまかされてるような気がするわ。あたしがほしいのは、本当の愛情、人情の流れ、心から自然に溢れ出る温かみです。
――だから、言っておきますが、愛子の温かい心が、あんたの冷酷な性格に冷されてしまう時こそ、もうお別れです。よく考えてみて下さい。そんなぎりぎりのところまで行かないうちに、すぐにお別れするか、それとも、人情を身につけてみようと努力なさるか、どちらともあんたの自由です。御返事を待ちましょう。御返事はどうですか。
[#ここから2字下げ]
愛子は正夫の注意を惹こうとするかのように、卓をことこと叩く。何度も叩く。だが正夫は、顔を伏せたまま身動きもしない。愛子のそばに、肥満した男が立ち上る。顔も太く、体も太く、手足も太く、殊に腹はでっぷりしている。その上、ひどくだぶだぶの服を着ているので、よけい肥満して見える。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――この酒太郎に言わせると、そりゃ愛子の方が無理だ。何もはっきりした理由もないのに、徒らに難癖をつけるというものだ。どだい、女の言うことは、すべて主観的でいかん。俺が本当に客観的なことを言ってやろう。それなら承認出来るだろう、ね、正夫君。
[#ここから2字下げ]
正夫はちらと顔を挙げて、不思議そうに酒太郎の方を眺め、急に顔をしかめて俯向く。
酒太郎は両腕を差し出し、指をすっかり開いた両の掌をちらちら動かす。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――いつも君は丈夫で、いいなあ。だから俺は君が好きさ。酒を飲みすぎると体に障る、と言う奴もいるが、そんなことに耳を貸しちゃいかん。遠慮会釈なく飲むがいいよ。
[#ここから2字下げ]
酒太郎は両手を腰にあてて、正夫をじっと見る。そのそばで、体をくねくねさしてる愛子こそ、酔っ払ってるように見える。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――正夫君、君の酔いっぷりは甚だよろしい。世の中の者、たいてい阿呆だから、何度も繰り返して言ってきかせなければ、はっきり納得しない。そこを君はよく心得てるね。繰り返し繰り返し、同じことを言う。もっとも、合の手に他のことがはさまりはするが、銚子一本あける間に、同じことを四回ぐらいは繰り返す。阿呆相手には、それに限るよ。
――ただちょっと可笑しいのは、酔っ払って言ったことを、君があとでけろりと忘れてることだ。だから俺にも一抹の疑念が起ろうじゃないか。即ち、銚子一本あける間に、同じことを四回も繰り返すのは、前に言ったという事実を忘れて、初めて言うつもりで繰り返すのか、それとも、阿呆相手だからというわけなのか、どちらなんだい。これは君の告白を俟たなければ、俺には分らない。
正夫――僕にも分らないさ。
酒太郎――ははあ、それじゃ俺に分らない筈だ。ところで、考えてみれば、酔っ払った時のことを後でけろりと忘れるのも、いいことだ。君はずいぶん辛辣な口を利くからね。そして思った通り無遠慮に言ってのけるからね。相手はずぶりと突き刺されて、深い痛手を蒙る。だから、相手の方はとにかく、君自身、そのことを後々まで覚えているとすれば、これはずいぶん困ったものだ。いくら形式打破を標榜し、徳義無視を標榜しても、社会生活には多少とも一種のエチケットが必要だから、痛手を与えた相手の前へ、のこのこ出て行きかねるという意味合いもあろうというものだ。少くともいくらかの気兼ねがあろうじゃないか。すっかり忘れてしまえば、どうでも宜しい。酔っ払い罷り通るというものだ。
――ところで、ちょっと注意しておくがね。後でけろりと忘れるにしても、酔っ払ったその時の君の態度にせよ言葉にせよ、少しも取り乱したところがなく、むしろ素面の時よりも立派なほどだ。だから、相手には君が酔っ払ってることがよく分らない。そういう酔い方は、ぐでんぐでんの酔い方よりも、よほど危険だぜ。とんだ誤解を招く恐れがある。用件なんかいくら忘れたって構やしない。冗談なんかいくら飛ばしたって構やしない。だが、相手が生真面目な女性だとか、謹厳な君子人だとかの場合には、後から弁解のしようもないことに立ち到らないとも限らない。この点は用心したがいいぜ。
――とにかく、君のは乱れない酒で、甚だ結構。口数が多くなるのも、胸中がすっきりする結果になって、甚だ結構。見識らぬ人にでも誰にでも話しかけるのも、万人同胞の意味で、甚だ結構。結構づくめだが、ただ一つ困るのは、金が乏しいことだ。財産があるわけではなし、雑誌や新聞に書き散らす雑文の原稿料だって高が知れたものだし、「黎明」だって購読料月三十円ではいくらの収入にもなるまい。だから、「黎明」への怪しい寄附金も時には欲しくなろうというものだ。然し、どうにか生計を立てて来たのは感心。借金だってそう沢山はないだろうね。もっとも、飲み代なんてものはどこからか出て来るものさ。
――それはとにかく、この頃、どうも俺の腑に落ちないことがある。まさか君は、この俺に背を向けるつもりじゃあるまいね。というのは、酒の取り方が違ってきた。二合とか、三合とか、また二合とか、三合とか、日に何度も酒屋へ電話をかけるじゃないか。酒屋でも呆れてるだろうよ。どうかすると朝っぱらから、そして晩まで続く。一日に一升以上になることも多い。そんなだったら、小刻みに取らないで、初めから一升壜を取り寄せたらいいじゃないか。いつぞや、愛子にからかわれたろう。二合とか三合とか、そう何度も電話をかけるから、電話料だって大変だ。あたしだったら、初めから一升壜を註文して、それを食卓の上にでんと据える。そうすれば、きっとうまくゆく……。
――俺はその時うっかり聞き流したが、うまくゆくとは、どういう意味だったろうか。俺だって疑いたくなろうじゃないか。まさか、酒を止めようなどと、謀反気を起してるんじゃあるまいね。俺と君とは長い間の仲だ。そして、島流しの刑に処せられて、一方は女だけの島で酒はなく、一方は酒だけの島で女の気はないが、どちらへ行くかと聞かれたら、もちろん、酒の島を選ぶと、ふだん言明してる君のことだ。まさかとは思うが、気になるね。
――二合とか三合とか小刻みに取り寄せるのは、禁酒の前提として減酒をする、という下心じゃあるまいね。それから、酔っ払うと君は、たいへん怒りっぽくなった。もとは、にこにこした和やかな酒だった。そうでなくなったのは、また飲み過ぎたと、自分自身に腹を立ててるんじゃあるまいね。もしそうだとすると、俺にも少し考えがある。ただでは済まさないから、覚悟しておいて貰いたいものだ。正夫君、どうなんだい。酒で顔でも洗って、きっぱり返答しないか。
[#ここから2字下げ]
正夫は顔を挙げて、じっと酒太郎を見つめ、険悪な表情をするが、思い返したように、また俯向いてしまう。
酒太郎のそばから、小さな男が
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング