、この節の男たちは、みみっちくなったものだ。何にでもすぐに溺れ込んでしまうからね。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる……。溺れないものがあるかね。溺れたらもう駄目だよ。水に溺れた者が水から逼い出して来たためしがあるかね。水から出るのは、もう死体になってからだ。
――だから、お前さんたちも用心するがいいよ。うっかりすると、とんだ殺人罪を犯すことになる。なにしろ相手が相手だ。何にでも溺れたがってるものね。泳ぎを知らない者が、旱魃だからって、深い淵に飛び込むような真似を、すぐにしたがるからね。
――それに、お前さんたちの方にも、罪があるよ。みんな慾が深くなってきた。つかまえたらもう放さないという慾心さ。さもしいものだ。きっとお前さんたち、昔と違って、貧乏になったんだろうね。貧すれば貪するさ。でも、自分の分限を知らなければいけないよ。のさばるのはまあよいが、慾張ってはいけない。注意しておくがね、あまり慾張ると、元も子も無くしてしまうよ。分ったかね、分ったらそれでいいさ。
[#ここから2字下げ]
老女の姿、掻き消すように消えてしまう。一同はほっとしたように、酒を飲みだす。
暫く無言。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――忌々しい婆だ。
煙吉――俺たちに意見をしていきやがった。
愛子――あのひとに髪の毛を引っ張られたかと思うと、頭中がむずむずしてくる。
時彦――然し、みごとにやっつけられたね。
煙吉――誰がさ。
時彦――俺たちみんなだ。
煙吉――いや、俺はやっつけられたとは思わん。
愛子――あたしもそうは思わんよ。時代が違って、物の考え方が違っただけのことさ。
酒太郎――だが、俺たち、貧乏になったんだろう、には参ったね。まったく、下落したんだからね。
煙吉――下落したって構わん。何もかもがそうじゃないか。
[#ここから2字下げ]
一同は何かがやがや言いながら、自暴自棄のように飲み食いする。その光景は、ますます乱雑になる。
不思議なことに、室内にいるのはどうも彼等だけではないような感じだった。私(筆者)は初めからそういう印象を受けていた。眼に見えるのは彼等だけだが、まだ他にもいろんな人物がどこかに潜んでいる、そういう気配だった。もとより、それらの者は、姿を現わしもせず、口を利きもしなかったが、確かにその室内にいるに違いなかった。実体の分らないそれらの者のため、室内の雰囲気はへんに乱されて、落着かない不安なものになっていた。だから、老女の姿が現われたり消えたりしても、私にはさほど意外ではなかった。眼に見える者たちの饗宴にしても、影の人物がたくさん参加してるような感じだった。然しそれら影の人物が、なかなか姿を現わさないのは、私の甚だ遺憾とするところである。
一人黙っていた議一が、ふと、こちらを向いて顔を挙げてる正夫に気付き、その方を凝視し、そして立ち上る。
[#ここで字下げ終わり]
議一――正夫君、さっきのお婆さんは、ほんとに君のお母さんかね。本人はそのように言っていたが……。
[#ここから2字下げ]
正夫は頬杖をついたまま、もう顔を伏せず、不敵な笑みを浮べる。
[#ここで字下げ終わり]
正夫――さあどうだか、よくは分らない。
議一――なんだって。君は母親をも見分けられないようになったのか。
正夫――そっちを向いていたから、後ろ姿だけでははっきり分らなかった。
議一――そんなら立って来るなり、言葉をかけるなりして、確かめたらいいじゃないか。
正夫――その興味もなかった。
議一――興味の問題じゃない。心情の問題だ。
正夫――僕にとっては、今のところ、自分一人のことで一杯だ。然し、あのひとが言ったことは、なかなか参考になった。或は、僕になにか教えるつもりで言ったのかも知れない。ただ、世代の違いから来る不理解な点があるのは、止むを得ないだろう。
議一――どういう点が不理解なんだ。
正夫――解決の方法が違う。
議一――何の解決なんだ。
正夫――それはいずれ見せてやるよ。
愛子――あら、正夫さんが話をしてるわ。
[#ここから2字下げ]
一同は正夫の方を見る。――おかしなことに、彼等は最初立ち上った時からずっと立ち続けてるのだ。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――ほう、悪びれずにこっちを見てるね。その通り、元気を出すんだ。そして、まあ酒でも飲めよ。俺たちはもうずいぶん酔っ払った。さっき、君のお母さんとかいうひとから、だいぶ意見をされたが、君も聞いたろう。面白いことを言うひとだ。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる、それが現代の通弊だってさ。通弊というものは、然し、時代思潮みたいなもので、一通りは身につけておくべきものだ。だから、溺れて構わん。どうだ、こっちに来ないか。それとも、俺たちの方で押しかけて行こうか。
議一――おい、君たち、もっと静かにしてくれ。正夫君は初めから、もう暫く放っといて貰いたいと、僕に頼んだ。その通りにしておいてやろうじゃないか。
煙吉――だから、俺たちは、静かに贈物を捧げたんだ。よけいな干渉はしないよ。
時彦――それも、時によりけりだ。どうも、正夫君を一人きりにしておきたくないね。
愛子――そうよ、そうよ。あたし行って、連れて来よう。
煙吉――まあ待て。
[#ここから2字下げ]
正夫は卓上にある品々を眺める。酒瓶を取って、ぐっと飲む。蜂蜜の瓶を取って、口一杯嘗める。再び酒をぐっと飲む。時計を取り上げて、時刻を見る。それから、缶の煙草を一本取って、悠々と吹かす。――その一々の動作を、一同は見守る。
[#ここで字下げ終わり]
正夫――僕がここでやってることが、どういう意味だか、君たちに分るか。お別れの挨拶だぞ。もうたくさんだ、きっぱり別れよう。だが、僕は卑怯に逃げ隠れするのではない。僕にも多少の意地と体面とがある。そして君たちに思い知らせてやりたいんだ。そうだ、思い知らせてやる、こいつは素晴しいことだ。見ておれ、思い知らせてやるから。
[#ここから2字下げ]
正夫は卓上の品々、酒瓶と蜜瓶と煙草缶と時計を、一つずつ取り上げ、窓へ投げつける。窓硝子の壊れる音がして、品々は外の闇の中に消える。――硝子の砕け散った窓が、ぽっかり口を開いている。正夫は一瞬、身を飜えすと、駆け出して行って、窓の穴から外へ飛び出してしまう。
[#ここで字下げ終わり]
議一――あ、いけない。しまった。
[#ここから2字下げ]
議一は窓へ駆けつける。一同も駆けつける。他の窓も開けて、外を透し見る。
[#ここで字下げ終わり]
議一――ここは四階だ。無事に飛び降りられるものではない。体は粉微塵だ。行ってやろう。
[#ここから2字下げ]
一同は足をめぐらして、窓と反対側にある扉を開き、廊下へ出て行く。
その時私(筆者)は、彼等の足音ばかりでなく、他のざわめきをも、確かに聞いた。眼に見える彼等ばかりでなく、他に多くの者が室内にいたに違いない。そして正夫は、それら多くの者の前に、曝しものとなっていたのであろう。それを思って、私はぞっとした。だが、一人残らず皆が出て行った後、室内はしんしんと静まり返り、更に深く静まり返ってゆくのが、耳にも感じ肌にも感じられて、何とも言えない恐ろしい思いだった。開け放されたままの窓から、開け放されたままの扉へと、冷たい夜気が流れていった。ふと見廻すと、円卓の上の饗宴の品々は、奇蹟のように消え失せていた。どうなったのであろうか。まさか彼等は魔法使ではなかったろうが、不思議極まる事態だった。考えてる時、また奇怪にも、天井の電灯がふっと消えた。室内は闇にとざされた。
寸時の躊躇の後、私は手探り足探りで、窓の方へ近づいて行った。窓口が、仄かな明るみで浮き出していた。窓から身を乗り出して覗いてみたが、戸外には深々と闇が湛えているきりだった。樹木も見えず、他の建物も見えなかった。窓の下方の地面も見えず、何一つ見えず、燈火も見えず、人声どころか、物音一つ聞えなかった。正夫や、其他の者たちは、どうなったのであろうか。忽然と消え失せたとしか思えなかった。私は夢をみたのであろうか。茫然とそこに佇むばかりだった。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「群像」
1952(昭和27)年7月
※底本では「 時彦――どうもおかしいぞ。〜奇怪極まる。」の段落だけ「改行天付き、折り返して1字下げ」になっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング