も繰り返して言ってきかせなければ、はっきり納得しない。そこを君はよく心得てるね。繰り返し繰り返し、同じことを言う。もっとも、合の手に他のことがはさまりはするが、銚子一本あける間に、同じことを四回ぐらいは繰り返す。阿呆相手には、それに限るよ。
 ――ただちょっと可笑しいのは、酔っ払って言ったことを、君があとでけろりと忘れてることだ。だから俺にも一抹の疑念が起ろうじゃないか。即ち、銚子一本あける間に、同じことを四回も繰り返すのは、前に言ったという事実を忘れて、初めて言うつもりで繰り返すのか、それとも、阿呆相手だからというわけなのか、どちらなんだい。これは君の告白を俟たなければ、俺には分らない。
 正夫――僕にも分らないさ。
 酒太郎――ははあ、それじゃ俺に分らない筈だ。ところで、考えてみれば、酔っ払った時のことを後でけろりと忘れるのも、いいことだ。君はずいぶん辛辣な口を利くからね。そして思った通り無遠慮に言ってのけるからね。相手はずぶりと突き刺されて、深い痛手を蒙る。だから、相手の方はとにかく、君自身、そのことを後々まで覚えているとすれば、これはずいぶん困ったものだ。いくら形式打破を標榜し、徳義無視を標榜しても、社会生活には多少とも一種のエチケットが必要だから、痛手を与えた相手の前へ、のこのこ出て行きかねるという意味合いもあろうというものだ。少くともいくらかの気兼ねがあろうじゃないか。すっかり忘れてしまえば、どうでも宜しい。酔っ払い罷り通るというものだ。
 ――ところで、ちょっと注意しておくがね。後でけろりと忘れるにしても、酔っ払ったその時の君の態度にせよ言葉にせよ、少しも取り乱したところがなく、むしろ素面の時よりも立派なほどだ。だから、相手には君が酔っ払ってることがよく分らない。そういう酔い方は、ぐでんぐでんの酔い方よりも、よほど危険だぜ。とんだ誤解を招く恐れがある。用件なんかいくら忘れたって構やしない。冗談なんかいくら飛ばしたって構やしない。だが、相手が生真面目な女性だとか、謹厳な君子人だとかの場合には、後から弁解のしようもないことに立ち到らないとも限らない。この点は用心したがいいぜ。
 ――とにかく、君のは乱れない酒で、甚だ結構。口数が多くなるのも、胸中がすっきりする結果になって、甚だ結構。見識らぬ人にでも誰にでも話しかけるのも、万人同胞の意味で、甚だ結構。結構づくめだが、ただ一つ困るのは、金が乏しいことだ。財産があるわけではなし、雑誌や新聞に書き散らす雑文の原稿料だって高が知れたものだし、「黎明」だって購読料月三十円ではいくらの収入にもなるまい。だから、「黎明」への怪しい寄附金も時には欲しくなろうというものだ。然し、どうにか生計を立てて来たのは感心。借金だってそう沢山はないだろうね。もっとも、飲み代なんてものはどこからか出て来るものさ。
 ――それはとにかく、この頃、どうも俺の腑に落ちないことがある。まさか君は、この俺に背を向けるつもりじゃあるまいね。というのは、酒の取り方が違ってきた。二合とか、三合とか、また二合とか、三合とか、日に何度も酒屋へ電話をかけるじゃないか。酒屋でも呆れてるだろうよ。どうかすると朝っぱらから、そして晩まで続く。一日に一升以上になることも多い。そんなだったら、小刻みに取らないで、初めから一升壜を取り寄せたらいいじゃないか。いつぞや、愛子にからかわれたろう。二合とか三合とか、そう何度も電話をかけるから、電話料だって大変だ。あたしだったら、初めから一升壜を註文して、それを食卓の上にでんと据える。そうすれば、きっとうまくゆく……。
 ――俺はその時うっかり聞き流したが、うまくゆくとは、どういう意味だったろうか。俺だって疑いたくなろうじゃないか。まさか、酒を止めようなどと、謀反気を起してるんじゃあるまいね。俺と君とは長い間の仲だ。そして、島流しの刑に処せられて、一方は女だけの島で酒はなく、一方は酒だけの島で女の気はないが、どちらへ行くかと聞かれたら、もちろん、酒の島を選ぶと、ふだん言明してる君のことだ。まさかとは思うが、気になるね。
 ――二合とか三合とか小刻みに取り寄せるのは、禁酒の前提として減酒をする、という下心じゃあるまいね。それから、酔っ払うと君は、たいへん怒りっぽくなった。もとは、にこにこした和やかな酒だった。そうでなくなったのは、また飲み過ぎたと、自分自身に腹を立ててるんじゃあるまいね。もしそうだとすると、俺にも少し考えがある。ただでは済まさないから、覚悟しておいて貰いたいものだ。正夫君、どうなんだい。酒で顔でも洗って、きっぱり返答しないか。
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正夫は顔を挙げて、じっと酒太郎を見つめ、険悪な表情をするが、思い返したように、また俯向いてしまう。
酒太郎のそばから、小さな男が
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