とに済まなかったと思うわ。外に出ても、あんたがどうしてるか気にかかって、おちおち用も達せやしない。
――夜寝ても、あんたはいつも、愛子の顔を自分の方に向けさせるわね。あちら向きになると、頸筋をくすぐって、こちら向きにならせる。そして、あたしの額にあんたの額を、あたしの鼻にあんたの鼻を、こすりつけてくる。ちっちゃな子供みたいね。そのくせ、あんたはほんとに眼ざとい。あたしがちょっと身動きすると、あんたはぱっちり眼を開いて、あたしの顔を見てるでしょう。いったい、あんたはほんとに眠ることがあるのかしらと、不思議に思うことがあるわ。一緒の布団に寝るのがいけないのかも知れないわね。
――それでいて、あたしなんだか、気持ちがしっとりと落着かないの。あんたが愛子をほんとに好きだってことは、そりゃあ分ってるわ。分ってるけれど、ほかにまだ何かある。何か冷りとするようなものがある。あんたのうちにあるのよ。あの「黎明」のために、人の出入りが多いことなど、あたしは何とも思ってやしません。月三回のあんなちっぽけな新聞なんか、止めてしまったらどうかと、思わないこともないけれど、それも男の仕事のことだから、さほど気にはしないわ。また、あの女事務員にあんたが色目を使ってるともあたしは思いません。それから、貧乏なこともあたしは平気です。金があったとて、どうせあんたは酒を飲んでしまうにきまってるわ。そんなこと一切、あたしは何とも思わないけれど、別に、冷酷なものがあんたのうちにある。
――あたしがにこにこした顔をしていると、あんたはいい気になって、酒を飲んで酔っ払ってしまう。あたしがちょっと不機嫌な顔をしていると……誰だってちょっと不機嫌なこともあるものよ……するとあんたは、ぷいと席を立ってしまう。だからわたし言ったでしょう。愛子がもし病気にでもなったら、あんたはどうなさるかしら。きっと放ったらかして、看病なんかして下さらないでしょう。そう言うと、あんたは苦い顔をして、黙ってしまったわ。黙ってるのは、そうだという返事と同じことよ。つまりあんたには人情味がない。人間らしい温かさがない。
――これは別なことだけれど、新聞記事のことや、映画のことや、世間の噂など、つまらない話を時々するでしょう。そんな場合、あんたは、それはこういう気持ちなんだろうと、心理的な批判はするけれど、よい人だとか、悪い人だとか、ひどい人だとか、そうした道徳的な批評は一切しないわね。その上、道徳なんか下らないことだと、口癖のように言ってるでしょう。だけど実は、一般庶民の道徳というものは、人情を元にしたものだわ。そう言うと、あんたはさもおかしそうに笑ったでしょう。
――あんたという人は、実に冷酷なエゴイストだわ。そういう面に触れる時、あたしはいつも冷りとします。そしてあんたからつきまとわれればまとわれるほど、なにかごまかされてるような気がするわ。あたしがほしいのは、本当の愛情、人情の流れ、心から自然に溢れ出る温かみです。
――だから、言っておきますが、愛子の温かい心が、あんたの冷酷な性格に冷されてしまう時こそ、もうお別れです。よく考えてみて下さい。そんなぎりぎりのところまで行かないうちに、すぐにお別れするか、それとも、人情を身につけてみようと努力なさるか、どちらともあんたの自由です。御返事を待ちましょう。御返事はどうですか。
[#ここから2字下げ]
愛子は正夫の注意を惹こうとするかのように、卓をことこと叩く。何度も叩く。だが正夫は、顔を伏せたまま身動きもしない。愛子のそばに、肥満した男が立ち上る。顔も太く、体も太く、手足も太く、殊に腹はでっぷりしている。その上、ひどくだぶだぶの服を着ているので、よけい肥満して見える。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――この酒太郎に言わせると、そりゃ愛子の方が無理だ。何もはっきりした理由もないのに、徒らに難癖をつけるというものだ。どだい、女の言うことは、すべて主観的でいかん。俺が本当に客観的なことを言ってやろう。それなら承認出来るだろう、ね、正夫君。
[#ここから2字下げ]
正夫はちらと顔を挙げて、不思議そうに酒太郎の方を眺め、急に顔をしかめて俯向く。
酒太郎は両腕を差し出し、指をすっかり開いた両の掌をちらちら動かす。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――いつも君は丈夫で、いいなあ。だから俺は君が好きさ。酒を飲みすぎると体に障る、と言う奴もいるが、そんなことに耳を貸しちゃいかん。遠慮会釈なく飲むがいいよ。
[#ここから2字下げ]
酒太郎は両手を腰にあてて、正夫をじっと見る。そのそばで、体をくねくねさしてる愛子こそ、酔っ払ってるように見える。
[#ここで字下げ終わり]
酒太郎――正夫君、君の酔いっぷりは甚だよろしい。世の中の者、たいてい阿呆だから、何度
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング