議一はふいに立ち上って、正夫をじっと見つめ、それからまた腰を下す。
[#ここで字下げ終わり]
 議一――それは君の今の姿勢だろう。そんなことを聞いてるんじゃない。僕たちが聞いてるのは、君の心の在りかた、精神の持ちかたのことだ。
 正夫――僕は、体の姿勢と精神の在りかたとを、別物だと考えてはいない。もう暫く、僕をこのまま放っといてくれ。
 議一――宜しい、君がそう言うなら、干渉はしない。然し……。
[#ここから2字下げ]
沈黙。
[#ここで字下げ終わり]
 議一――さっき、僕たちは少し言い過ぎだったかも知れない。僕たちは君のことをやはり仲間だと思っているんだ。日本人の悪い癖で、些細なことからすぐに、右の陣営だの左の陣営だの、敵だの味方だのと、符牒を貼りたがる、そういう通弊に陥りたくはないのだ。然しまた、甘っぽい感傷や未練のために、思い違いをしたくもないのだ。
 ――例えば、映画を観る若い娘の話を持ち出してもいい。Nというスター俳優のファンだとする。右側の席にいた娘は、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。左側の席にいた娘も、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。中央の席にいた娘も、やはり同じことを言う。一階の席でも二階の席でも、同じことだ。映画とはそうしたもので、Nの眼は凡ての人を見てるので、つまり誰をも見ていないことになる。そういう画面の俳優のようであってほしくないと、君に僕たちは希望する。ここに眼のことを言うのは比喩であって、実は顔のことだ。君の顔がどっちに向いてるか、それが問題なんだ。
 ――顔を地面に向け、眼を足元に注ぐ、それは君の自由で僕たちはとやかく言いたくない。体の姿勢と精神の在りかたとは別物でないと君は言うが、それも一応は承認しておこう。然し、そういう体の姿勢、そういう精神の在りかたが、君がやはり僕たちの仲間だとすると、実は心配になるんだ。それは取りも直さず、病気か衰弱の兆候だからね。もう暫くこうしていたいとは、いったい何事だ。自滅を待つばかりじゃないか。
[#ここから2字下げ]
議一は激しく卓を叩く。正夫はちらと顔を挙げるが、また顔を伏せて、静かに言う。
[#ここで字下げ終わり]
 正夫――僕は無理に死のうとは思わないし、それと同じ程度に、無理に生きようとも思わない。
 議一――ばかな。万事無抵抗主義で、
前へ 次へ
全19ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング