も、もう遅いわ。いいえ、もうだめよ。あたしの思う通りにさしてね。決心したんだもの。なんにも言わないでね。ただ一生、一生、あなたのことは忘れないわ。」
「僕だって……。」
あとの言葉が出なかった。どう言ったところで、嘘になるにきまってる感じだ。なにか、襦袢でもぬがせられたようで、背筋が寒かった。わーっと大声で喚きたい。喚きながら駆け廻りたい。それをばか、ばか、と自分で叱りながら、おれは酒を飲んだ。
「あたしのこと、あなたも、一生忘れないと、ね、誓って。」
「そのことなら、誓うよ。」
「きっとね。」
「うむ、誓う。」
これは、嘘ではない。だが、おれはふいに腹が立った。彼女からの恩義を、今の場合に感じたからだ。彼女はおれの面倒をいろいろみてくれた。帽子が古ぼけてるといっては、新しいのを買ってくれた。靴や、靴下、麻のハンカチ、ネクタイ……。箪笥の底から浴衣地の反物を引き出して、寝間着に仕立ててくれた。彼女はおれより一つか二つ年上だろうか、まるで姉のようにおれの身なりに気を配ってくれた。おれの方からは、ただ閨の歓楽を報いただけだが、この取引では、むしろ彼女の方が得をした筈だ。おれの身辺の世話
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