だ。彼女が室から出て行くと、その壜がはっきりと見えてきた。
私はセンチにはなっていなかった。彼女は何と思ってあんなことを言ったのだろうか。おそらく彼女自身に向って言ったのであろう。私は酔ってはいたが、決してセンチに取り乱してはいなかった。――店の方の物音に耳をかしながら、冷静に、紫色の壜を手に取った。決心などという飛躍はなかった。覚悟が既に出来上っていたのだ。壜をしばらく眺めてから、蓋をねじあけ、中の薬品を掌に受けた。真白な結晶の粉末だ。
彼女がやってくる気配がした。私は壜を文机の上に戻し、掌の薬品をコップにあけて、そのままちょっと掌でコップを覆って押さえた。
彼女はチーズの缶と平皿とを食卓の上に並べ、前からあったピーナツや焼海苔の皿を片方へ押しやり、ナイフでチーズを小さく切りはじめた。その平凡な事柄が、レンズを通して眺めるように鮮明に見えた。
その時、なにか恐怖に似たものが私の全身を捉えた。寒む気がし、膝頭が震えた。長火鉢にかかってる鉄瓶に掌を押しあてたが、少しも熱くはなく、鉄瓶がかたかた音を立てた。粗相なことをしてはならない、と私は自分に言った。そしてあのコップをそっと食卓
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