ってほろほろと落ちた。それを私は確かに見た。幻覚ではなかったのだ。
 私は黙って、コップにウイスキーをつぎ、水をわった。彼女もコップを差しだしかけたが、その手をとめた。
「いいものがあるわ。忘れていた。」
 戸棚をことことかきまわして、その奥からチーズの缶を取り出した。そして店の方へ彼女は立って行った。
 そのちょっとした隙間に、私は覚悟をきめた。いや寧ろ、覚悟とも言える決定的なものが、自然に生れてきたのだ。――戸棚のわきの文机に、インクスタンド、硯箱、人形、切子硝子の花瓶、手箱の類など、ごたごた並んでいる、その片端に、小さな紫色の壜が置かれていた。先刻、話のついでに、彼女が私に見せた毒薬の壜だ。彼女はそれを無雑作に机に置いたまま、忘れてしまったのであろうか。然し私の意識の底には、それが引っかかっていたらしい。縋つく手掛りさえない彼女の冷淡な言葉や、思いがけない熱い接吻や、夢のような彼女の涙や、それから何よりも、自分の卑劣な惨めな愛情に思い当った悲しみなど、そんなものが重なり合って私の上に押っ被さってき、私は深く深く沈んでゆく思いで、その深い淵から、紫色の壜をちらちらかいま見ているよう
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