の下に隠して、立ち上った。――尿意を催したのだ。
見上げた彼女の眼が、魚のように見えた。
「ちょっと、用をたしてくる……。」
「あら、御不浄はこっちよ。」
そこの狭い汚い便所が頭に浮び、私はそれが嫌だった。
――死ぬなら、立派に死ぬのだ。
私は木戸をあけて、裏口の方へ出て行った。そこに少し空地があって、私は酔った時など、そちらで用をたす癖がついていた。
どこかに月があると見えて、ぼーっと明るかった。私は空地に行って、ふらふらしながら、長い小便をした。そして戻りかけると、よろめいて片膝をついた。大きな円っこい石がそこにあり、私はそれによりかかるようにして屈みこんだ。
――考えることなんか何があるものか。ただ悲しみに浸れ。そこにお前の人生がある。
悲しみとは、単なる感傷ではなかった。生をも死をも呑みつくすもの、つまり私の人生だったろう。――遠くに、夜汽車の走るらしい音が聞えていた。それからややあって、ふいに、鷄の鳴声がした。
私は夢からさめたように立ち上った。ズボンの塵を丁寧にはたいた。注意して服装をあらため、上衣にまでボタンをかけた。死に赴くためなのか、生に赴くためなのか、もう自分にも分らなかった。私はしっかりした足取りを意識した。
裏口にしまりをして、室に戻った。室内の様子は、はっきり眼にとめていたわけではなかったが、なぜか、前と聊かの変りも乱れもないことが分った。ただ、彼女が足をなかば伸しかけてつっ伏していた。私は少し離れて坐った。
突然、言い知れぬ戦慄が私に伝わった。私は彼女の肩に手をかけた。彼女は死んでいたのだ。――次の瞬間に私は気がついた。食卓の下に置いておいた筈のあのコップが、半ば呑み干されて、卓上にあった。
あの時、あの場合、どうして弓子はチーズなどという食慾を起したのだろう。彼女がチーズの缶をあけに立って行かなかったとしたら、情況は違っていたろう。いやそれよりも、私はどうして尿意など催したのだろう。この事件の中で、私が堪え難いほど恥しく思うのは、その一事だ。而もその恥しい一事のために、局面は急転回したのだ。何か訳の分らない恐怖のために尿意が起ったなどとは、私は思っていない。また、万一の場合に粗相なことをしてはいけないと考えて用をたしに行ったのを、卑怯なこととも思っていない。ただ、尿意を催したというそのこと自体を、恥しく思うのだ。
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