その上なお、別個な屈辱までが加わってきたのだ。
「あの晩、君たちは、肉体の関係はまだなかったようだね。」
なにかにやりとした笑いをこめた訊問を、私は受けたのである。つまり、肉体の交りを私が強く意慾していたという風に、推測されたものらしい。
事件の全貌は、結局、意に従わぬ彼女を私が計画的に毒殺したか、或は、合意情死の中途で私だけが卑怯にも逃げたか、そのどちらかと見られているらしい。
それを打ち消す確証は、どこにもないのだ。私はただ一方的に、真実を語るだけのことである。而も私に、どれだけの真実が分っているのか。
弓子は多分、チーズを切ってから、一口飲みたいと思い、その時、私のコップがないのに気づき、それを食卓の下に見出し、ウイスキーがはいってるのを幸に、何の気もなく、それをぐっと飲んだのであろう。――これが最も妥当な解釈だ。彼女を毒死の罠にかけようという意向が聊かでも私にあったろうとは、私自身が承認しないことである。また、コップの中のが毒酒であると彼女が知っていたろうとは、前後の事情から推察し難いことである。
それにも拘らず、妥当な解釈だけでは割り切れないものが、私の気持ちの底にも淀んでいるのだ。それは後から忍びこんできたものなのであろうか。
その上、私のその後の行動は、外見的に私に不利な点が多かった。――私は弱い人間なのだ。
弓子はただ意識を失ってるに過ぎないかのようだった。どこにも苦悶の跡は見えなかった。呼吸神経を麻痺さして忽ち窒息死に至らしむるその猛毒は、じかに生命を奪うだけで、関節の硬直をも来させないのだ。上半身を抱き上げた手を私が放すと、彼女の体は柔らかにぐたりと崩れた。それを私は仰向きに真直に寝かしてやり、半ば開いてる瞼を閉ざしてやった。彼女のハンケチを探して、それで顔を覆ってやった。それから、長火鉢の鉄瓶をおろして、炭火をかきたてた。それから、両腕を組んだ。眼をつぶって考えるつもりだったが、眼はつぶれなかった。――大きな不安が襲ってきたのだ。
毒酒のコップに掌で蓋をした時の恐怖とは違い、また、彼女の死を知った時の驚駭とは違い、なにか得体の知れない大きな不安だった。それが室内に濃く充満してきた。犯罪を意識しだすという、そんなことではない。後始末をどうしようという、そんなことでもない。もっと彼女の死体にじかに繋ってるものなのだ。それでも、彼女が
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