ってほろほろと落ちた。それを私は確かに見た。幻覚ではなかったのだ。
私は黙って、コップにウイスキーをつぎ、水をわった。彼女もコップを差しだしかけたが、その手をとめた。
「いいものがあるわ。忘れていた。」
戸棚をことことかきまわして、その奥からチーズの缶を取り出した。そして店の方へ彼女は立って行った。
そのちょっとした隙間に、私は覚悟をきめた。いや寧ろ、覚悟とも言える決定的なものが、自然に生れてきたのだ。――戸棚のわきの文机に、インクスタンド、硯箱、人形、切子硝子の花瓶、手箱の類など、ごたごた並んでいる、その片端に、小さな紫色の壜が置かれていた。先刻、話のついでに、彼女が私に見せた毒薬の壜だ。彼女はそれを無雑作に机に置いたまま、忘れてしまったのであろうか。然し私の意識の底には、それが引っかかっていたらしい。縋つく手掛りさえない彼女の冷淡な言葉や、思いがけない熱い接吻や、夢のような彼女の涙や、それから何よりも、自分の卑劣な惨めな愛情に思い当った悲しみなど、そんなものが重なり合って私の上に押っ被さってき、私は深く深く沈んでゆく思いで、その深い淵から、紫色の壜をちらちらかいま見ているようだ。彼女が室から出て行くと、その壜がはっきりと見えてきた。
私はセンチにはなっていなかった。彼女は何と思ってあんなことを言ったのだろうか。おそらく彼女自身に向って言ったのであろう。私は酔ってはいたが、決してセンチに取り乱してはいなかった。――店の方の物音に耳をかしながら、冷静に、紫色の壜を手に取った。決心などという飛躍はなかった。覚悟が既に出来上っていたのだ。壜をしばらく眺めてから、蓋をねじあけ、中の薬品を掌に受けた。真白な結晶の粉末だ。
彼女がやってくる気配がした。私は壜を文机の上に戻し、掌の薬品をコップにあけて、そのままちょっと掌でコップを覆って押さえた。
彼女はチーズの缶と平皿とを食卓の上に並べ、前からあったピーナツや焼海苔の皿を片方へ押しやり、ナイフでチーズを小さく切りはじめた。その平凡な事柄が、レンズを通して眺めるように鮮明に見えた。
その時、なにか恐怖に似たものが私の全身を捉えた。寒む気がし、膝頭が震えた。長火鉢にかかってる鉄瓶に掌を押しあてたが、少しも熱くはなく、鉄瓶がかたかた音を立てた。粗相なことをしてはならない、と私は自分に言った。そしてあのコップをそっと食卓
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