を文学の世界に転位するに当って、自分の息吹きを可能なる限り通わせたいのである。それ故、何かのために、或るいは誰かのために、小説を書いてると言うよりは、むしろ、自分自身のために書いてるとも言える。
 そういうわけだから、私の作品に対する或る種の評言を、私は甘んじて受ける。何を書こうとしたのか分らない、焦点がはっきりしない、抽象的すぎる、現実味が乏しい、などなどの評言である。私の造形的怠慢の致すところだ。この怠慢から、今後、出来るだけ脱出したいとは思っている。
 ところで、自分自身のために書く意味合が多いということは、必ずしも、自分の作意と世の中とのつながりを無視したことにはならない。作家というものは、如何なる作家にせよ、その作中人物の在りかたを、理念に於いては、人間もしくは人類の在りかたの鏡に映して眺めるものである。作中人物はたいてい、断崖のぎりぎりの一線に指定されるが、その在りかたの意義を規定するのは、それを映し出す鏡の位置如何による。自分自身のために書く意味合が多いということは、この鏡の位置により多く忠実だと言うことに外ならない。
 私自身のその鏡の位置は、どこにあるのであろうか。固
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