セった。
「そうだ、きみ、幸福だ、財産だ。それがすっかりきみのおかげでわしに来ようというのさ。こういうわけだよ。わしは憐れな憲兵だ。役目は重いし、月給は少ないし、馬は自分持ちでやりきれない。そこで、たりない分を手に入れるつもりで富籤《とみくじ》をやってる。何とかひと工夫しなくちゃならないんだからな。ただいい番号さえあてれば、これまでずいぶん儲かったんだがな。いつも確かなのを探してるが、いつもはずれてばかりいる。七十六番にかければ、七十七番が出るってしまつだ。いくらやっても、どうもうまくいかない。――もうすこしだ、じきに話はすむよ。――ところで、わしにいい機会がきた。ねえきみ、こう言っちゃなんだが、きみは今日|逝《い》っちまうんだろう。ところが、そういうふうに死なせられた者は、確かに前から富籤がわかる。だから、明日の晩わしのところへ来てくれないか、何でもないことだろう。そして三つばかり番号を、いいのを知らせてくれないか。ねえ?――わしは幽霊なんぞこわがりはしない。大丈夫だ。――わしの住所はな、ポパンクール兵営A階段二十六号室、廊下の奥だ。わしの顔を覚えててくれるだろうね。――今晩のほうがつごうがいいっていうんなら、今晩来てくれよ。」
私はそのばか者に返事するのもくだらないはずだったが、その時あるおかしな希望が頭にうかんだ。私のように絶望的な地位にあると、人は時として、ひとすじの髪の毛ででも鎖が断ち切れるような気をおこすものである。
「では言うがね、」と私は死にのぞんでる者としてはできるだけの仮面をかぶって言った、「まったくぼくは、きみを王様より金持にならせることができる。何百万となく儲けさせることができる。――がただ一つの条件がある。」
彼は呆然と目をみはった。
「どういう条件だ、どういう条件だ。何でも君の望みしだいだ。」
「番号を三つどころか、四つも知らせてやろう。だから、僕と服を取り換えるんだ。」
「それだけのことなら!」と彼は叫びながら制服のホックをはずしはじめた。
私は椅子から立ちあがっていた。そして彼の動作を見守っていた。胸は動悸していた。もうすでに、憲兵の制服の前にどの扉も開き、それから広場、街路、そしてパレ・ド・ジュスティスの建物は後ろに遠くなってゆくのが、目に見えるようだった。
しかるに、彼は不決断な様子でふりかえった。
「ああ、ここから出るためじゃないだろうね。」
私は万事だめだと悟った。それでも最後の努力をやってみた、無益にもそして無謀にも!
「そのためだ。」と私は言った。「しかしきみは財産ができるし……」
彼は私の言葉をさえぎった。
「いやいや! どうも! わしの番号だって、いいのがわかるには、きみが死ななくちゃいけない。」
ほの見えた希望がいっそう完全に消えてしまって、私はむっつりとまた腰をおろした。
三三
私は目をふさいで、その上に両手をのせて、忘れようとつとめた、現在を過去のうちに忘れようとつとめた。そして夢みながら、自分の幼年時代や青年時代の思い出が、いま頭のなかに渦巻いている暗い錯雑した考えの深淵の上の花の小島のように、穏やかな静かな喜々たる姿で一つ一つうかんでくる。
子供の時の自分自身が見える。にこやかな元気な小学生で、自然な庭の広い緑の径で、兄弟たちと遊び駆けり叫んでいる。私はそこで幼時の幾年かをすごしたのだった。以前は女修道院の構内だった庭で、上にはヴァル・ド・グラースの黒ずんだ円屋根の鉛の頭がそびえている。
次には、四、五年後の自分が見える。やはりまだ子供ではあるが、もう夢想的に情熱的になっている。さびしい庭には一人の少女がいる。
スペインの少女で、大きい目、ふさふさした髪の毛、浅黒い金色の皮膚、赤い唇、ばら色の頬、アンダルシア生れの十四歳の少女ペパ。
一緒に駆けまわっていらっしゃいと、私たちは両方の母から言われた。で私たちはぶらついてくる。
お遊びなさいと私たちは言われた。で私たちは話をする。同性でない同年配の子供なのだ。
それでも一年前まではまだ、私たちは一緒に駆けったり争ったりした。私は小さなペピタと、りんごの木のいちばん立派なりんごを奪いあう。私は小鳥の巣のことで彼女を打つ。彼女は泣きだす。あたりまえだ、と私は言う。そして二人で一緒に母たちのところへ訴えに行く。母たちは大きい声でしかり、小さい声でうなずいてくれた。
いまではもう彼女は私の腕によりかかっている。私はひどく得意でひどく感動している。私たちはゆっくりと歩き、声低く話をする。彼女はハンカチを取り落とす。私はそれを拾ってやる。二人の手は触れあって震える。彼女は私に語る、小鳥のこと、かなたに見える星のこと、木立のむこうの真赤な夕日のこと、あるいは学校の友だちのこと、自分の長衣やリボンのことなど。私たちは無邪気な事柄を口にして、そしてどちらも顔をあからめる。少女は若い娘となっている。
あの晩――夏の晩だった――私たちは庭の奥のマロニエの木の下にいた。いつもよく散歩のあいだじゅう続く長い沈黙の後で、彼女は突然私の腕を離れて、駆けましょう、と私に言った。
その姿がまだ私の目に残っている。彼女は祖母の喪のためにすっかり黒の服装だった。彼女の頭に子供らしい考えがうかび、ペパはまた小さなペピタとなって、私に言った、駆けましょう!
そして、彼女は私より先に、蜜蜂の胸のようにすらりとした体と小さな足とで、すねのなかばまで長衣をまくらせながら駆けだしはじめた。私は後を追っかけた。彼女は逃げた。彼女の黒い肩衣《かたぎぬ》はときどき駆ける拍子に風を受けてまくれて、その褐色のみずみずしい背が私に見えた。
私はむちゅうになっていた。廃《すた》れた古い水溜めの近くで彼女に追っついた。打ち勝った元気で彼女の帯のところをつかまえて、ひとむらの芝生の上に座らせた。彼女はさからわなかった。息を切らして笑っていた。私はまじめだった。彼女の黒い睫毛《まつげ》ごしにその黒いひとみを眺めていた。
「お座りなさいよ。」と彼女は私に言った。「まだ明るいわ。何か読みましょう。ご本を持っていらしって?」
私はスパランツァーニの旅行記の第二巻を手にしていた。いいかげんのところを開いて、彼女のかたわらに寄った。彼女は私の肩に自分の肩をもたした。そして私たちは同じページをべつべつにごく低く読みはじめた。ページをめくる前に、彼女はいつも私を待たねばならなかった。私の頭は彼女ほど早く進めなかった。
「すんで?」と彼女は私がまだ読みはじめたばかりなのに聞くのだった。
そうしてるうちに、私たちの頭は触れあい、髪の毛は一緒になり、息はしだいに近よって、突然口と口とが合わさった。
また読みつづけようとした時には、空に星が出ていた。
「ああ、お母さま、お母さま、」と彼女は家のなかにもどると言った、「あたしたちはそりゃあ走ったわ!」
私のほうは黙っていた。
「なんにも言わないで、」と私の母は私に言った、「あなたは悲しそうなふうですよ。」
私は心のなかに天国を持っていた。
その晩のことを、私は生命《いのち》のあるかぎり忘れないだろう。
生命のあるかぎり!
三四
ただいま時が鳴った。それが何時だか私にはわからない。大時計の音も私にはよく聞こえない。耳のなかにオルガンの音でも響いているような気がする。最後の考えがうなってるのだ。
自分の思い出にふけるこの最期の時になって、私はまた自分の犯罪を思いだしてぞっとする。しかし私はもっと深く悔悛したいのだ。死刑判決以前には私はいまより多く良心の呵責《かしゃく》を受けていた。それが死刑判決後には、死の考えよりほかになんらの余地も心にないような気がする。それでも私は深く悔悛したいのだ。
自分の生涯のうちの過去のものをしばし夢みたのち、その生涯をやがて終らすべき斧の一撃のことを思いやる時、私は何かある新奇なものに出会ったようにびっくりとする。うるわしい幼年時代、うるわしい青年時代、金色の布地、そしてその先端は血ににじんでいる。あの当時と今とのあいだには、血潮の川がある、他の男と私自身との血がある。
もし他日私の経歴を読む者があったら、潔白と幸福との多くの年月の後に、犯罪で始まり刑罰で終わるこの呪うべき年があろうとは、おそらく信じかねるだろう。この一年は不釣合いな感じを与えるだろう。
それにしても、みじめなる法律とみじめなる人間らよ、私は悪人ではなかったのだ。
おお、数時間後には死するのか。そして、一年前のこういう日には、私は自由で清らかで、秋の散歩をし、木立の下をさまよい、木の葉の上を歩いていた、ということを考えると!
三五
今この時間に、私のまわりには、パレ・ド・ジュスティスの建物とグレーヴの広場とをとりまいてる人家のなかには、往き来し、談笑し、新聞を読み、自分の仕事のことを考えている、多くの人々がいる。物を商ってる商人たち、今晩の舞踏会の長衣を用意してる若い娘たち、子供と遊んでる母親たちがいる。
三六
ある日子供の頃、ノートル・ダームの釣鐘を見に行ったときのことを、私は覚えている。
薄暗い螺旋階段をのぼり、二つの塔をつないでいる細長い回廊を通り、パリを足の下に見て、私はもう目がくらみながら、石と木との檻の中にはいっていった。そこから鐘鐸《しょうたく》のついた釣鐘が千斤の重さでさがっていた。
よく合わさってない床板の上を私はふるえながら進んでいって、パリの子供や人民のうちにあれほど名高いその鐘を、すこし先のほうに眺めた。ななめの屋根で鐘をとりかこんでるスレートぶきの庇《ひさし》が、自分の足と同じ高さにあるのを見てとって、私は恐ろしくなった。そしてときどき上からちらと、ノートル・ダーム寺院の前庭を見おろし、蟻のような通行人を見おろした。
突然、その大きな鐘が鳴った。深い震動が空気をゆさぶり、重々しい塔を震わせた。床板は構桁《こうげた》の上に跳びあがった。私はその音であやうくひっくりかえるところだった。よろめいて、倒れかかって、スレートぶきのななめの庇《ひさし》の上を滑り落ちそうだった。恐ろしさのあまり私は床板の上に寝て、両手でしっかとそこにしがみつき、口もきけず、息もできず、耳には非常な響きが鳴りわたり、そして目の下には、断崖があり、深い広場があって、そこにはうらやましくも平然と多くの通行人らが往来していた。
ところで、私は今もちょうどその釣鐘の塔の中にいるような心地がする。すべて茫然自失と眩暈《めまい》とだ。鐘の音のようなものがあって、頭のなかを揺り動かす。そして私は人々が往来しているあの平坦な静かな人生から離れていて、周囲を見まわしても、ただ遠く深淵の隙間ごしにしかもうそれが見えない。
三七
市庁は不気味な建物である。
とがった急な屋根、奇妙な小塔、大きな白い時計面、小さな円柱の並んでる各階、無数のガラス窓、人の足ですりへってる階段、左右二つの迫持《せりもち》、そういうものをつけてそこに、グレーヴの広場と同平面に控えている。陰鬱で、悲しげで、全面老い朽ちて、ひどく黒ずんで、日があたってる時でさえ黒く見える。
死刑執行の日には、そのあらゆる戸口から憲兵が吐き出され、そのあらゆる窓から人の目が受刑人を眺める。
そして晩には、刑執行の時間を報じたその時計面が、建物の暗い正面に光っている。
三八
一時十五分だ。
私はいま次のような感じを覚える。
激しい頭痛。寒い腰と、燃えるような額。立ちあがったりかがみこんだりするたびに、脳のなかに液体でもはいってるような気がし、そのために脳みそが頭蓋骨の内側にぶつかるような気がする。
痙攣《けいれん》的な身震いがする。そしてときどき、電気にでも打たれるようにペンが手から落ちる。
煙のなかにでもいるように目がひりひり痛む。
肱の具合が悪い。
もう二時間と四十分、そうすれば私はすべて回復するだろう。
三九
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