ト、自分で感じて、服にはこんな着癖がついてる、私なんだ、この私なんだ!
二七
それがどんなふうになされるものか、そこではどんなふうに死んでゆくものか、それがわかっていたらまだしも! しかし恐ろしいことには、私はそれを知らない。
その機械の名前は人をぞっとさせる。どうして私は今までそれを字に書いたり口に言ったりすることができたか、自分でもわからない。
その十個の文字の組合せ、その風采、その顔つきは、恐るべき観念を呼び起こさせるようにできている。その機械を考案した不幸の医者は、宿命的な名前を持っていたものだ。〔断頭台は guillotine、断頭台考案の医者は Guillotin。〕
その醜悪な名前で私が想起する形象は、漠然とした不定なものであって、それだけにまた不気味なものである。名前の一綴り一綴りがその機械の一片みたいだ。私はその各片で、異様な機械を頭のなかでたえず組み合わせたり壊したりしてみる。
それについては誰にも一言もたずねかねるのではあるが、しかしそれがどんなものであるかもわからず、どんなふうにしたらよいかもわからないというのは、恐ろしいことだ。なんでも、一枚の跳ね板があって、うつぶせに寝かされるらしいが……。ああ、私は首が落ちる前に頭の毛が白くなってしまうことだろう!
二八
けれども、私は一度それを瞥見したことがある。
ある日午前十一時ごろ、馬車でグレーヴの広場を通りかかった。すると馬車は突然とまった。
広場は雑踏していた。私は馬車の扉口からのぞいてみた。あさましい群集が広場と河岸とにいっぱいになっていて、河岸の胸壁の上にも女や男や子供らが立っていた。群集の頭越しに、三人の男が組み立てている赤い木の台みたいなものが見えた。
一人の死刑囚がその日刑を執行されることになっていて、機械が立てられているのだった。
私はそれを見るか見ないうちに頭をそらした。馬車のそばに一人の女がいて、子供に言っていた。
「おや、ごらんよ、庖丁のすべりが悪いので、蝋燭《ろうそく》の切れっぱしで溝縁《みぞぶち》にあぶらをひくんだよ。」
今日もたぶん今ごろはそうだろう。十一時が打ったところだ。彼らはきっと溝縁にあぶらをひいてることだろう。
ああ、こんどは不幸にも、私は頭をそらすことがないだろう。
二九
おお、赦免、赦免、私はおそらく赦免されるかもしれない。国王は私に悪意をいだいてはいない。私の弁護士をさがしてきてほしい。はやく、弁護士を! 私は徒刑を望む。五年の徒刑、それだけにしてほしい――あるいは二十年――あるいは鉄の烙印《らくいん》の終身でも。ただ生命《いのち》だけは助けてくれ!
徒刑囚は、それはまだ歩くし、往ったり来たりするし、太陽の光を見る。
三〇
司祭がまたやってきた。
彼は白髪で、ごく穏和な様子で、善良な尊い顔をしている。まったく立派な慈悲深い人だ。けさ私は彼が財布をはたいて囚人らに恵むのを見た。けれどもどうしたわけか、彼の声には何も人を感動させるようなところがなく、また自ら感動してるようなところもない。どうしたわけか、私の精神を動かしたり心を動かしたりするようなことを、彼はまだなにひとつ私に言ってくれなかった。
けさは私は茫然としていた。彼が何を言ってるかもよく聞き取らなかった。でも彼の言葉などは何の役にも立たないような気がして、無関心な態度でいた。この冷たい窓ガラスの上のこの寒い雨のように、彼の言葉はただ滑り落ちていったのだった。
それでも、先刻彼が戻ってきた時、私はうれしい気がした。これらの人々のうちで、この人だけが私にとってはまだ人間である、と私は思った。そして親切な慰安の言葉をせつに求める気持がおこった。
私たちは腰をかけた、彼は椅子に、私は寝台に。彼は私にやさしく「あなた……」と言った。その言葉は私の心を開いてくれた。彼は言いつづけた。
「あなた、神を信じますか。」
「はい。」と私は答えた。
「あなたは、使徒の旨を体したローマの聖《きよ》いカトリックの教会を信じますか。」
「もちろんです。」と私は言った。
「あなた、」と彼は言った、「疑っているようです。」
そして彼は話しはじめた。長いあいだ話した。たくさんの言葉を言った。それから、心ゆくばかり言ってしまうと、立ちあがって、話をしはじめてからようやくはじめて私の顔を見ながら、私にたずねかけた。
「どうです?」
私は実際のところ、はじめはむさぼるように、次には注意深く、次には心をこめて、彼の言葉に耳をかたむけてたのだった。
私も彼とともに立ちあがった。
「どうか、」と私は答えた、「私を一人きりにしておいてください、お願いです。」
彼はたずねた。
「いつ戻ってきたらよろしいですか。」
「私のほうからお知らせしましょう。」
すると彼は出ていった。べつに怒ってるふうはなかったが、頭を振りながら、ちょうどこう自ら言ってるようだった。
「不信仰者だ!」
いや、私はいかにも低く堕《お》ちてはいるが、不信仰者ではない。私が神を信じていることは、神が知っている。いったい彼は、あの老人は、何を私に言ったか。本当に感じたもの、心を動かしたもの、涙のにじんだもの、魂からじかに出てきたもの、彼の心から私の心へとかようもの、彼から私へつながるもの、そういうものは一つもなかった。そしてただ、ある漠然としたもの、ぼやけたもの、万事にまた万人に通用できるものばかりだった。深みを要するところに誇張を持ち来し、素純を要するところに平明を持ち来した。それは一種の感傷的な説教であり、神学的な哀歌だった。ところどころにラテンの句をラテン語で引用し、聖アウグスティヌスとか聖グレゴリウスとかいうものが出てきた。そのうえ彼は、すでに二十ぺんも暗唱した課目を復唱してるようであり、知りすぎてるために記憶のうちに消えかかった課題を復習しているがようだった。目には何の輝きもなく、声には何の抑揚もなく、手には何の身振りもなかった。
がどうして他のことを彼に望めよう。その司祭は監獄の本職の教誨師である。彼の職業は人を慰安し訓戒することで、彼はそれによって生活している。徒刑囚や科人《とがにん》は彼の雄弁のばねである。彼はそれが自分の仕事だからして、彼らを懺悔させ彼らを補佐する。彼は人を死に連れてゆくことで年老いている。戦慄すべきことに長く馴れている。白の髪粉をつけたその髪の毛はもう逆立つことはない。徒刑場と死刑台とは彼にとっては毎日のことである。彼は鈍りきっている。たぶん彼は帳面でも持っていて、徒刑囚のページや死刑囚のページがあることだろう。翌日の何時には慰めてやるべき者がある、ということを前日から知らせられる。そこで徒刑囚か死刑囚かをたずね、そのページを読み返して、それからやってくる。そういうふうにして自然に、ツーロンに行く者もグレーヴに行く者も彼にとっては普通事となり、また彼らにとっては彼が普通事となる。
おお、そういうもののかわりに、どこでもよいから手近な教区に行って、どんな人でもよいからある若い助任司祭を、あるいは年とった司祭を、私のために探してもらいたい。そして彼が暖炉《だんろ》のほとりで、書物でも読んでいてなにも予期していないところをつかまえて、こう言ってもらいたい。
「死にのぞんでいる一人の男がいます。あなたにその男を慰めていただきたいのです。その男が手を縛られる時、髪の毛を切られる時、あなたはそこについていてください。その男の馬車に十字架像を持って一緒に乗って、死刑執行人が彼の目につかないようにしてください。グレーヴの刑場まで彼と一緒に揺られていってください。血に飢えてる恐ろしい群集のあいだを彼と一緒に通ってください。死刑台の下で彼を抱擁して、それから彼の頭と体とがはなればなれになるまで、そこに控えていてください。」
そして、頭から足先まであえぎおののいてるその司祭を、私のところへ連れてきてほしい。その両腕のなかに、その膝の上に、私の身を投げ出させてほしい。彼は涙を流すだろう。私たち二人は涙を流すだろう。彼はよく話してくれるだろう。私は慰められるだろう。私の心は彼の心のなかでやわらぐだろう。彼は私の魂を受け取るだろう、私は彼の神を受け取るだろう。
しかしあの人のよい老人は、私にとって何であるか。私は彼にとって何であるか。彼にとって、私は不幸な部類に属する一個人であり、彼がすでにたくさん見た影と変りない一つの影であり、刑執行の数に加うべき一個にすぎない。
私が彼をこういうふうに退けるのは、おそらく間違いであろう。彼のほうは善良で、私のほうは邪悪である。ただ悲しいかな、それは私のせいではない。すべてを害《そこ》ない凋《しぼ》ます死刑囚の息吹きのせいである。
食物が持ってこられた。彼らは私が食べたがってると思ったのだ。念を入れた軽い食物、若鶏らしいものと他の何か。私は食べようとしてみた。しかし一口ものどには通らなかった。それほど私にはにがにがしい胸悪い味がした。
三一
帽子をかぶった相当な人が一人はいってきた。彼は私のほうにはほとんど目もくれず、尺度器を開いて、壁の石を下から上まで測っていきながら、よろしい[#「よろしい」に傍点]とか、いけない[#「いけない」に傍点]とか、高い声で言った。
私は憲兵にそれが誰であるかたずねた。監獄に雇われてる下級の建築技師らしい。
彼のほうでも、私に対して好奇心をおこした。一緒について来てる鍵番と低く数語をかわした。それからちょっと私の上に目をすえ、無頓着なふうで頭を振って、また高い声で口をきいたり尺度を測ったりしはじめた。
仕事がすむと、彼は私のほうへ近づきながら、その響きの高い声で言った。
「きみ、六か月たつと、この監獄はずっとよくなるですよ。」
そしてその身振りはこう言い添えてるようだった。
「きみがそれを味わえないのは、気の毒だ。」
彼はほとんどほほえんでいた。婚礼の晩に新婦をからかいでもするようなふうに、彼がいまにも私を静かに冷笑しかかってるらしく、私には思えた。
古参の腕章をつけてる老兵である憲兵は、返事をひきうけてくれた。
「あなた、」と彼は言った、「死人の室でそんなに高い声で話すものではありません。」
建築技師は出ていった。
私はそこに、彼が測ってた石の一つのようにじっとしていた。
三二
それから次に、おかしなことがあった。
私についてる善良な老憲兵は取り除かれた。私は恩知らずに得手勝手にも彼に握手をさえしてやらなかった。彼と交替に他の憲兵が来た。額のひしゃげた、目の太い、無能な顔つきの男だった。
それにまた、私はすこしも注意を払っていなかった。扉に背を向け、テーブルの前に座って、手で額を冷やそうとしていた。いろんな考えに頭が乱れていた。
肩を軽くたたかれて、私はふりむいた。それは新たに来た憲兵で、室のなかに私は彼と二人きりだった。
ほぼ次のようなふうに彼は私へ話しかけた。
「おい、きみには親切心があるかね。」
「ない。」と私は言った。
ぶっきらぼうな私の返事に、彼はまごついたらしかった。それでもまた彼はためらいながら言った。
「すき好んで不親切なんて者はあるはずはない。」
「なぜないんだ。」と私は答え返した。「それだけの話だったら、ほっといてくれたまへ。いったい何のつもりでそんなことを言いだすんだ。」
「まあ聞いてくれ。」と彼は答えた。「ほんのちょっとだ。これだけのことだ。もしきみが一人の気の毒な男の幸福をはかってやることができて、それもきみになんの迷惑もおよぼさないことだったら、それでもきみはそれをしてくれないというのかね。」
私は肩をそびやかした。
「きみはシャラントンの精神病院からでも来たのかね。ふしぎなことを楽しみにしたもんだ。わしだったら、他人の幸福をはかってやるんだがな。」
彼は声を低めて、意味ありげな様子をした。それは彼の愚かな顔つきには不似合い
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