ィ前にもわかったらしいな。」
 実際私は顔色が変わり、髪の毛がさかだっていた。それはもう一人の受刑人、その日の死刑囚、私の後継者としてビセートルで待ち受けられている男だった。
 彼は言いつづけた。
「どうもね、身の上を話しゃあこういうわけさ。俺は立派な熊手〔泥棒〕の息子なんだ。ところが残念なことに、首切り人のやつご苦労にも、ある日親父にネクタイ〔絞首の縄〕を結んじゃった。ありがたくもねえ、首吊り柱の時代なんだ。六つの年に、俺にはもう親父も母親もなかった。夏には、路傍の埃のなかに逆立ちをして駅馬車の窓から一スー二スーを投げてもらった。冬には、はだしで泥のなかを歩いてさ、まっかになった手に息を吐きかけた。ズボンの破れからしりがのぞいてるしまつだ。九つになるとお手が役立ってきた。ときどき、懐中をひっこぬいたり、マントをくすねたりした。十の年には、立派な巾着切《きんちゃくき》りさ。それから知合いもできてきた。十七の頃には、立派などろちゃんだ。店を破り、錠をねじあける。とうとうつかまった。もうその年齢だったんで船こぎのほうにやらされちゃった。徒刑場ってつらいもんだぜ。板の上に寝るし、真水を飲み、黒パンを食い、何の役にも立たねえ鉄のたまを引きずる。棒はくらわせられるし、日には照りつけられる。それに頭は刈られてるんだ。俺は栗色のみごとな髪をしてたんだがな! だがまあいいさ……俺は刑期をつとめあげた。十五年、それだけふいになっちゃった。俺は三十二になってた。ある朝、一枚の旅行券と、六十六フランもらった。徒刑場で、日に十六時間、月に三十日、年に十二か月、十五年間働きづめでためた金だ。それはまあいいとして、俺はその六十六フランで正直な人間になろうとした。俺のぼろの下には、坊さんの上っ張りの下なんかより、ずっと立派な気持がひそんでいた。ところが旅行券のやつめ! 黄色なんだ、放免囚徒[#「放免囚徒」に傍点]と書きつけてあるんだ。そいつをどこに行くにも見せなけりゃならねえし、いなかにこっそりひそんでりゃあ、一週間ごとに役場に差し出さなきゃあならねえ。みごとな紹介だ、徒刑囚とさ! こわがらあね。子供は逃げるし、家の戸は閉められる。誰も仕事をくれる者はねえ。俺は六十六フランを食っちまった。それから、かせがなきゃあならなかった。俺は立派に働ける腕を見せたが、どこにも使ってくれねえ。日雇の代を十五スーにし、十スーにし、五スーにした。がだめだ。どうなるものか。ある日俺は腹がすいてた。パン屋の窓ガラスを肱で突き破って、パンをひときれつかみ取った。するとパン屋は俺をつかみ取った。そのパンを食いもしねえのに、終身徒刑で、肩に三つ烙印《らくいん》の文字だ。――見てえなら、見せてやろうか。――その裁きを再犯[#「再犯」に傍点]というんだ。そこで逆もどりさ。ツーロンの徒刑場に連れもどされたが、こんどは終身の緑帽だ、脱走しなきゃあならなかった。それには、壁を三つ突き抜き、鎖を二つ断ち切るんだが、俺には一本のくぎがあった。俺は脱走しちゃった。警戒砲が撃たれた。俺たちはな、ローマの枢機官みてえで、赤い服をつけてさ、出発の時には大砲が撃たれるんだ。だが役には立たなかったね。俺のほうでは、こんどは黄色い旅行券はなかったが、しかし金もなかった。すると仲間に出会った。刑期をつとめあげてきたやつもいれば、鎖を打ち切ってきたやつもいる。一緒になれと首領がすすめた。街道でばさ[#「ばさ」に傍点]をやってるんだ。俺は承知して、人殺しで暮らしはじめた。乗合馬車のこともあるし、郵便馬車のこともあるし、馬車に乗ってる牛商人のこともあった。そして金は奪っちまい、馬や馬車はどこになりと行くままにし、死骸は足が出ねえように用心して木の下に埋めた。その墓の上で、土が新しく掘り返されたのが見えねえようにと、みんなして踊りまわった。俺はそんなふうにして、やぶの中に巣くい、野天で眠り、森から森へと狩り立てられ、でもとにかく自由で自分のままで、年をとっていったものだ。だがなにごとにも終りがある。それにだって同じだ。ある晩、俺たちは捕縄の連中にとっちめられた。同類は逃げちまった。が俺は、いちばん年とってたもんで、その金帽子の猫どもの爪に押さえられた。そしてここに連れてこられた。俺はもう梯子《はしご》のどの段も通ってきて、ただおしまいの一段が残ってるだけだった。ハンカチを一つ盗むのも、人を一人殺すのも、もう俺にとっちゃ同じことだったんだ。もう一つ再犯が重なるってわけだ。首刈り人のところを通るよりほかはねえんだ。裁判は簡単に片づいちゃった。まったく、俺はもう老いぼれかけてるし、もうやくざ者になりかけてる。俺の親父は後家縄をめとった〔絞首刑にされた〕し、俺は無念の刃のお寺にひっこむ〔ギロチンにかかる〕んだ。――そういうわけさ、お前!」
 私はぼうぜんとして聞いていた。彼ははじめの時よりなお高く笑いだして、私の手をとろうとした。私は嫌悪のあまり後にさがった。
「お前は、」と彼は言った、「元気らしくねえよ。死に目にびくびくするもんじゃねえ。そりゃあ、お仕置場でちょっとの間はつれえさ。だがじきにすんじまわあ。俺がそこでとんぼ返りをするところをお前に見せてやりてえもんだな。まったくだ、今日お前と一緒に刈り取られるんなら、俺は上告をよしちまいてえ。おなじ司祭が俺たち二人に用をしてくれる。お前のおあまりをいただいてもいいさ。ねえ俺はいい子だろう。え、どうだ、仲よくさ!」
 彼はなお一歩私に近寄ってきた。
「どうかあなた、」と私は彼を押しのけながら答えた、「ありがとう。」
 その言葉で、彼はまた笑いだした。
「ほほう、あなた、あなたさまは侯爵かね、侯爵だな。」
 私はそれをさえぎった。
「きみ、ぼくは考えたいんだ。ほっといてくれ。」
 私の言葉がごくまじめな調子だったので、彼は突然考えこんだ。灰色のもうはげかかってる頭を動かし、それから、だらけたシャツの下にむきだしになってる毛深い胸を爪でかきながら、口でつぶやいた。
「わかった。つまり、坊主みてえだ……」
 それから、しばらくだまってた後で、彼はほとんどおずおずと言った。
「ねえ、あなたは侯爵だ、それはいい。だが立派なフロックを着ていなさる。もうそれもたいした役にも立つめえ。首切り人が取っちまうだろう。俺にくれませんかな。売り払ってたばこの代にするんだが。」
 私はフロックをぬいで、彼に渡した。彼は子供のように喜んで手をたたいた。それから、私がシャツだけで震えてるのを見て言った。
「寒いんでしょうな。これを着なさるがいい。雨が降ってる。ぬれますぜ。それに、車の上じゃあ体裁もある。」
 そう言いながら、彼は灰色の厚っぽい毛糸の上衣をぬいで、私の腕に持たした。私は彼のするままにまかせた。
 そのとき私は壁のところに行って身を支えた。言葉につくせない感銘をその男から受けたのだった。彼は私からもらったフロックを調べていて、たえず喜びの声をたてた。
「ポケットはどれも真新しだ。えりもすりきれていねえ。――少なくも十五フランは手にはいるな。なんてありがてえことだ。あと六週間のたばこができた!」
 扉が開いた。彼らは私たち二人を連れにきた、私のほうは死刑囚が最後の時間を待つ室へ、彼のほうはビセートルへ。彼は憲兵らの護送隊のまんなかに笑いながらつっ立って、彼らに言っていた。
「ほんとに、まちげえちゃいけませんぜ。私たちは、旦那と私は、上っ張りを取り換えたんだ。私をかわりに連れてっちゃいけませんぜ。まったく、そいつあ困る。もうたばこの代ができたんだからな!」

       二四

 あの老背徳漢、彼は私のフロックを奪い取った。というのは、私はそれをくれてやったのではなかったから。そして彼は私に、このぼろを、自分のけがらわしい上衣を残していった。私はこれからどんな様子に見えるだろう?
 私が彼にフロックを渡したのは、無頓着《むとんちゃく》からでも慈悲心からでもなかった。いや、彼が私よりも強かったからだ。もし拒んだら、私はあの太い拳《こぶし》でなぐられたろう。
 そうだ、悲しいかな、私は悪い感情でいっぱいになっていた。あの古泥棒のやつを、この手でしめ殺すことができたら、この足で踏みつぶすことができたら、とそう思ったのだ。
 私は憤激と苦々しさとで胸がいっぱいになる気がする。苦汁の袋がはち切れたような気持だ。死はいかに人を邪悪にすることか。

       二五

 私は一つの監房に連れこまれた。そこには四方の壁があるばかりだった。もとより、窓には多くの鉄棒がはまっており、扉に多くの閂がかかっているのは、いうまでもないことである。
 私はテーブルと椅子と物を書くに必要なものとを求めた。それはみな持ってこられた。
 次に私は寝床を一つ求めた。看守はびっくりした目つきで私を見た。「何になるんだ?」というような目つきだった。
 それでも、彼らは片隅に十字寝台を一つ広げてくれた。しかしそれと同時に、私の室[#「私の室」に傍点]と彼らがいってる監房のなかに、憲兵が一人やってきて腰をすえた。私がふとんの布で首をくくりはすまいかと彼らは気づかったものらしい。

       二六

 十時だ。
 おお私のかわいそうな小さな娘よ! これから六時間、そしたら私は死ぬんだ。私はあるけがらわしいものとなって、医学校の冷たいテーブルの上に投げ出されるだろう。一方では頭の型を取られ、他方では胴体が解剖されるだろう。そうした残りは棺にいっぱいつめこまれるだろう。そしてすべてがクラマールの墓地に行ってしまうだろう。
 お前の父を、彼らはそういうふうにしようとしている。が、その人たちは誰も私を憎んではいないし、みな私を気の毒に思ってるし、みな私を助けることもできるはずだ。だが私を殺そうとしている。お前にそのことがわかるかい、マリーや。おちつきはらって、儀式ばって、よいこととして、私を殺す。ああ!
 かわいそうな娘よ! お前の父をだよ。父はお前をあんなに愛していた。お前の白いかぐわしい小さな首にいつも接吻していた。絹にでも手をあてるようにして、お前の髪の渦巻の中にしじゅう手を差し入れていた。お前のかわいいまるい顔を、てのひらにのせていた。お前を膝の上に跳んだりはねたりさしていた。そして晩には、神に祈るために、お前の小さな両手を合わしてやっていた。
 そういうことを、これから誰がお前にしてくれるだろうか。誰がお前を愛してくれるだろうか。お前くらいの年齢の子供たちにはみな父親があるだろう。ただお前だけにはない。お正月に、お年玉や美しい玩具やお菓子や接吻などを、お前はどうしてなくてもすませるようになるかしら。――不幸な孤児のお前は飲み物や食べ物をどうしてなくてもすませるようになるかしら。
 ああ、もしあの陪審員らがせめて彼女を見たなら、私のかわいい小さなマリーを見たなら、三歳の子供の父親を殺してはいけないということを、了解したろうに。
 そして彼女が大きくなったら、それまでもし生きてるとすれば、彼女はどうなるだろう。父親のことがパリの人々の頭に残ってるにちがいない。彼女は私のことと私の名前とに顔をあからめるだろう。彼女は私のせいで、心にあるかぎりの愛情で彼女を愛してる私のせいで、軽蔑され排斥され卑しめられるだろう。おお私のいとしい小さなマリーよ! 本当にお前は私を恥じ私をきらうだろうか。
 みじめにも、何たる罪を私は犯したことか、そして何たる罪を私は社会に犯させようとしてることか!
 ああ、今日の日の終らないうちに私が死ぬというのは、はたして本当なのか。本当にそれは私なのか。外に聞こえるあの漠然たる叫び声、もう河岸通りを急いでいるあの愉快げな人波、衛舎のなかで用意をしているあの憲兵ら、黒い長衣をつけてるあの司祭、まっかな手をしてるあのもう一人の男、それは私のためなんだ。死ぬのは私なんだ。ここに、生きて、動いて、息をして、このテーブルに、普通のこのテーブルに座っていて、そしてどこにでもいることのできる、この同じ私なんだ。自分でさわっ
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