セった。「私は鎖よりあのほうが好きさ。」
 それは私にも合点できる。この観物《みもの》のほうが一目でたやすく見てとられるし、早く見られる。同じほどすてきでいっそう簡便だ。何も気を散らさせるものはない。一人の者しかいないし、その一人の者に、徒刑囚ら全部をひとまとめにしたほどのみじめさがある。ただひろがりが少ないだけだ。それは濃くした酒で味がいっそうよい。
 馬車は動きだした。大きな門の穹窿《きゅうりゅう》の下を通る時重々しい音をたて、それから並木道に出た。ビセートルの重い門扉は馬車の後ろにまた閉ざされた。私はただぼうぜんとして自分が運び去られるのを感じた。昏睡状態におちいっている者が、動くことも叫ぶこともできずに、墓穴に埋められる音をただ聞いてるがようなものだった。私はぼんやり聞いていた、駅次馬の首にさがってる鈴のたばが拍子をとってしゃっくりをするように鳴るのを、鉄輪の車輪が敷石の上に音をたてたり轍《わだち》を変えて車体にぶつかったりするのを、馬車のまわりに憲兵らが馬を駆けさせる響きを、御者の鞭が鳴るのを。そしてすべてそれらのものは、自分を運び去る旋風のように私には思えた。
 正面にあけられているのぞき穴の金網ごしに私は、ビセートルの大きな門の上に大字で刻まれてる銘に、機械的に目をすえていた。養老院[#「養老院」に傍点]としてあった。
「おや、」と私は考えた、「あすこで年をとる者があると見える。」
 そして夢うつつの間でするように、私はそのことを苦悩で麻痺《まひ》した頭のなかであらゆる意味に考えまわしてみた。と突然、馬車は並木道から街道へ出て、のぞき穴の視点を変えた。ノートル・ダームの塔が、パリの靄《もや》の中になかば隠れて青い姿で、そこにはめこまれた。とすぐに私の精神の視点も変わった。私は馬車と同じく機械的になっていた。ビセートルの観念のつぎにノートル・ダームの塔の観念が現われた。――あの旗の立ってる塔に登ったらよく見えることだろう。と私は呆《ほう》けた微笑をうかべながら考えた。
 ちょうどその時だったと思うが、司祭はまた私に口をききはじめた。私は気長に彼をしゃべらせておいた。私の耳にはもう、車輪や駆ける馬や御者の鞭などの音がいっぱいになっていた。それにもう一つ音が加わったわけである。
 その単調な言葉が落ちかかってくるのに私はだまって耳をかしていた。それは泉の囁《ささや》きのように私の考えを眠らせ、街道のまがりくねった楡《にれ》の木のように、どれも異なってはいるがどれも同じようで、私の前を通りすぎていった。その時、前部に乗ってる執達吏の短い荒い声が、突然響いて私をはっとさせた。
「ねえ、司祭さん、」と彼はほとんど快活な音調で言っていた、「なにか変わったことはありませんか。」
 彼がふりむいてそう話しかけてるのは司祭へだった。
 教誨師はたえまなく私に口をきいていたし、馬車の響きに耳をふさがれていたので、返事をしなかった。
「いやはや、」と執達吏は車輪の音にうち勝つため声を高めて言った、「地獄のような馬車だ。」
 地獄の! 実際そうである。
 彼は言いつづけた。
「まったく、がたがたの混沌界《こんとんかい》だ。言葉も通じやしない。何のことを言ってたのかしら。司祭さん、何のことでしたかね。――ああそう、あなたはパリの大事件を知っていますか、今日の……」
 私は自分のことを話されているかのようにぞっとした。
「いいえ。」と司祭はついに聞きとって言った。「けさ新聞を読むひまがなかったものですから。晩に見てみましょう。私はこんなに一日じゅうふさがってるときには、新聞を取っておくように門番にたのんでおいて、家に帰ってからそれを読むことにしています。」
「へえー、」と執達吏は言った、「よくも知らないでいたもんですね。パリの大事件ですよ、けさの事件ですよ。」
 私は口を開いた。
「私は知ってるつもりです。」
 執達吏は私を眺めた。
「あなたが、そうですか。では、あなたの意見は?」
「好奇ですね。」と私は言った。
「なぜです?」と執達吏は答え返した。「誰でも政治上の意見を持っているものです。私はあなたを尊敬するから、あなたが政治上の意見を持たないとは思いません。私としては、国民軍の復興にまったく賛成です。私はもと中隊の軍曹でした。そしてどうも、それはいいものでしたよ。」
 私は彼の言葉をさえぎった。
「さきほどの話は、そのことではなかったはずです。」
「では何のことですか。あなたが知ってる事件というのは……」
「私が言ったのはもうひとつの事件です。そのことでも今日パリじゅうが騒いでいます。」
 愚かな彼は会得しなかった。ひどく好奇心をおこした。
「もうひとつの事件ですって? どこでいったいあなたはそういろいろ知ったんですか。何ですか、ほんとに。司祭さんあなたは知っていますか。私よりくわしいんですか。聞かしてください、どうか。どういうことですか。――まったく、私は新しい話が好きです。それを裁判長殿に話してきかせるんです。すると、面白がりますよ。」
 そして彼はやたらに言葉を費やした。司祭と私のほうへかわるがわるふりむいた。私はただ肩をそびやかすだけで返事をしなかった。
「ねえ、何をいったい考えてるんですか。」と彼は私に言った。
「もう今晩は考えなくなるだろうということを考えています。」と私は答えた。
「ああ、そのことですか。」と彼は答え返した。「どうも、あなたはあまり沈んでいますね。カスタン氏は話をしていましたよ。」
 それから、ちょっと口をつぐんだ後彼はまた言った。
「私はパパヴォアーヌ氏をも同道しました。パパヴォアーヌ氏はかわうその皮の帽子をかぶって、葉巻をくゆらしていました。ラ・ロシェルの若い人たちのほうは、仲間同士にしか口をききませんでした。でもとにかく口をきいていましたよ。」
 彼はまたちょっと間をおいて、それから言いつづけた。
「あの人たちは狂人ですね、熱狂家ですね。世間じゅうの者をみな軽蔑してるようなふうでしたよ。あなたのほうはどうかっていえば、まったく考えこんでいますね、若いのに。」
「若い!」と私は彼に言った。「あなたよりも年とっています。四半時間ほどたつごとに一年ほど年をとるんですから。」
 彼はふりむいて、愚かな驚きのふうでしばらく私を眺めた。それから重々しい冷笑の調子をとった。
「御冗談でしょう、私より年とってるなんて! 私はあなたのおじいさんともいえるほどですがね。」
「私は冗談を言ってるんじゃありません。」とまじめに私は答えた。
 彼は嗅ぎたばこ入れを開いた。
「ねえ気を悪くしちゃいけませんよ。まあ一服なすって、私を悪く思わないでください。」
「お気づかいにはおよびません。悪く思おうとしても、もう長いことではないでしょうから。」
 その時、彼が私にさし出してるたばこ入れは間をへだてている金網にあたった。それも、馬車の動揺のためにかなり激しくぶつかって、開いたまま憲兵の足の下に落ちた。
「金網のやつめ!」と執達吏は叫んだ。
 彼は私のほうへ向いた。
「これはどうも、困りました。たばこをすっかりなくして!」
「あなたよりもっと多くのものを私はなくしています。」とほほえみながら私は答えた。
 彼はたばこを拾おうとしながら口のなかでつぶやいた。
「私よりもっと多くのものだって! 言うだけなら容易《やす》いさ。パリまでたばこなしとは、ひどいことだ。」
 その時教誨師は彼に少しなぐさめの言葉をかけた。私は他に気を向けてたかもしれないが、とにかくそれは私には、私がはじめ受けてた説教のつづきのように思われた。そして少しずつ、司祭と執達吏とのあいだに会話がはじまっていった。私は彼らのほうを話すままにさしておいて、自分のほうでは考えはじめた。
 市門に近づいてゆくと、やはり私は他に気を奪われたにはちがいないが、パリが平素よりもそうぞうしいように思えた。
 馬車はちょっと入市税関所の前にとまった。市の税関吏が馬車を検査した。もし羊か牛かを屠殺所に運ぶのだったら、彼らに金袋を一つ投げ出さなければならないだろう。しかし人間の首は当然何も払わなくてよい。私たちは通りすぎた。
 大通りを越すと、サン・マルソー大通りやシテ島の古いまがりくねった街路に、馬車はまっしぐらに駆けこんでいった。蟻《あり》の巣の無数の穴のようにうねりうねって互いに交差してる、それらの狭い街路の敷石の上に、馬車はいかにも音高く速やかに進んでいったので、外部の物音はもうすこしも私の耳にはいらなかった。しかし四角な小さなのぞき窓からちらと見ると、通りがかりの人波が立ちどまって馬車を眺めてるように思われるし、子供の群れが馬車の後をつけて走ってくるように思われた。またときどき、四つ辻のあちらこちらで、ぼろをまとった男や老婆が、時とすると二人そろって、印刷した紙の一たばを手に持って、大声で叫んでるらしく口を開き、その紙を通行人が奪い合ってるのが、見てとられるようにも思われた。
 パレ・ド・ジュスティスの大時計が八時半を打ってる時に、私たちはコンシエルジュリーの中庭に着いた。その大きな階段、その黒い礼拝堂、その多くの不気味なくぐり戸などを見て私はちぢみあがった。馬車がとまった時には、自分の心臓の鼓動もとまりかかってるような気がした。
 私は力をふるいおこした。馬車の扉は電光のような速さで開かれた。私はその移動監房からとびおりた。そして二列の兵士らのあいだを穹窿《きゅうりゅう》の下へ、大股にはいりこんでいった。私の通り路にはすでに人だかりがしていた。

       二三

 パレ・ド・ジュスティスの公共回廊を歩いてるうちは、私はほとんど自由な気楽な心地だった。しかしやがて私の決意はくじけてしまった。低い扉や、秘密の階段や、内部の通路や、奥よりこもった長い廊下などが、私の前に開かれた。処刑する者と処刑される者しかはいらない場所である。
 執達吏はやはり私についてきていた。司祭は私から離れて、二時間ほどしたらまたやってくることになっていた。彼は自分の用があるのだった。
 私は典獄の室に導かれて、執達吏から典獄の手にわたされた。それは一つの交換だった。典獄は執達吏にちょっと待ってくれるようにたのんで、引き渡すべき獲物[#「獲物」に傍点]が来るはずだから、それをすぐに帰りの馬車でビセートルへ連れていってもらいたいと言った。きっと今日の死刑囚で、すり切らすだけの時日が私にはなかったあの藁たばの上に今晩寝るはずの、その男のことにちがいない。
「承知しました。」と執達吏は典獄に言った。「しばらく待ちましょう。ごいっしょに二つの調書をこしらえるとしましょう。うまくいくでしょう。」
 そのあいだ、私は典獄の室のつぎの小さな室に入れられた。そこに厳重に閉めこまれて一人きりにされた。
 私は何のことを考えていたか、またどれくらいそこにいたか、自分でもわからないが、ふいに、激しい笑い声が耳に響いて、夢想からさめた。
 私はぞっとして目をあげた。室の中には私一人きりではなかった。一人の男が私と一緒にいた。五十歳ほどで、ふつうの背丈で、しわがより、背がかがみ、髪は白くなりかかり、ずんぐりした手足をし、灰色の目に斜視の目つきをし、顔に苦笑をうかべ、不潔で、ぼろをまとい、なかば裸体で、見るもいやなほどの男だった。
 私が気づかぬうちにいつのまにか、扉が開いて、その男を吐き出し、それからまた閉まったものらしい。もしも死がそういうふうにして来るものなら!
 私たちは数秒のあいだじっと見合った、男のほうは最期のあえぎに似たその笑いを長びかせながら、私のほうはなかば驚きなかば恐れて。
「誰です?」と私はついに言った。
「ばかなおたずねだな。」と彼は答えた。「あがったりだよ。」
「あがったり! 何です、それは?」
 その問いは彼をますます上機嫌にした。
「それはな、」と彼は大笑いをしながら叫んだ、「首切り人が六時間後にお前の切り株にじゃれるように、六週間後には俺のソルボンヌにじゃれるってことさ。――ははは、もう
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