@ リルロンファ・マリュレ。
靴には革のほこりよけ、
マリュレ。
けれども王様いらだって、
リルロンファ・マリュレット、
言うことに――どうでもこうでも、
リルロンファ・マリュレ、
彼女をひとつ踊らせなくては、
リルロンファ・マリュレット、
床なしの宙ぶらりんで、
リルロンファ・マリュレ。――
[#ここで字下げ終わり]
唄はそれから先は聞こえなかった。聞こえても私は聞くにたえなかったろう。その恐ろしい哀歌のなかばわからない意味、盗賊と警官とのその争闘、盗賊が途中で出会って女房のところへ差し立てるその盗人、俺は一人の男を殺害して捕縛された――樫の木に汗を流さしてくらいこんだ[#「樫の木に汗を流さしてくらいこんだ」に傍点]、というその恐るべき使命、請願をもってヴェルサイユの宮殿へ駆けてゆくその女房、床なしの宙踊り[#「床なしの宙踊り」に傍点]をさせるぞと罪人を威嚇《いかく》するその憤った陛下[#「陛下」に傍点]……しかもそれらのことが、およそ人の聞きうるもっともやさしい調子ともっともやさしい声とで歌われたのである。私は胸をえぐられ凍《こご》えあがり参らされてしまった。それらの恐ろしい言葉が小娘のまっかな鮮やかな口から出てくるというのは、たえがたいことだった。ばらの花になめくじの粘液がついているようなものだった。
私がどういう気持を覚えたかを書き表わすことはできそうもない。私は傷つけられるとともに慰撫された。賊の巣窟と徒刑場との方言、血まみれの奇怪なその言葉、子供の声と女の声との微妙な中間にある若い娘の声に合わさっている、その醜悪な隠語、うたわれ調子をとられ真珠をちりばめられている、すべてそれらの奇形な不恰好な言葉よ!
ああ、いかに監獄というものはけがらわしいものであることか。そこにはあらゆるものを汚す一つの毒液がある。すべてが、十五歳の娘の唄でさえも、そこでは色あせてしまう。そこで小鳥を一羽見つければ、翼に泥がついている。そこできれいな花を一つ摘んで嗅げば、くさい臭いがする。
一七
おお、もし脱出したら、どんなにか私は野原をつっきって駆けてゆくことだろう!
いや、駆けてはいけないだろう。駆ければ人の目について疑われる。駆けないで、頭をあげ唄をうたいながらゆっくり歩くことだ。赤い模様のある青いうわっぱりの古いのを手に入れることだ。それを着ればなかなかわからない。この付近の野菜作りたちはみなそれをつけている。
アルクイユの近くに、一群の木立が沼のそばにあるのを私は知っている。中学のとき友人たちと一緒に木曜日にはいつもそこへ蛙を取りに行ったものだ。そこに私は晩まで隠れよう。
夜になってまた、歩きだそう。ヴァンセンヌへ行こう。いや、川でじゃまされるかもしれない。アルパジョンへ行こう。――サン・ジェルマンのほうへ向かったほうがいいかもしれない。そしてル・アーヴルへ行き、イギリス行の船に乗りこむ。――そんなことはとにかく、ロンジュモーを通る。憲兵が通りかかる。旅行券を調べられる……。おしまいだ。
ああ、不幸な夢想者よ、汝《なんじ》を閉じこめている三ピエの厚みの壁をまず破って出てみるがいい。死だ、死があるばかりだ!
まだ子供のおり、ここに、このビセートルに、大きな井戸と狂人たちとを見にきたときのことを、考えてもみると、ああ!
一八
こんなことを書いている間に、ランプの光は淡くなって、もう夜が明けた。礼拝堂の大時計が六時を打った。――
どういうわけだろう、係りの看守が私の監房のなかにはいってきて、帽子をぬぎ、会釈《えしゃく》をし、邪魔するいいわけをして、荒々しい声をできるだけやわらげながらたずねた、朝食になにか食べたいものはないかと……。
私は戦慄を覚えた。――今日なんだろうか?
一九
今日なんだ!
典獄も自分で私を訪れてきた。私の意にかなうためになることをしてやりたいが何かないかとたずね、彼やその部下の者たちをうらむことのないようにと希望する旨を述べ、私の健康のことや前夜をどういうふうにすごしたかということを、興味深く聞きただした、そして別れぎわに、私をきみ[#「きみ」に傍点]と呼んだ。
今日なんだ!
二〇
あの獄吏は、私が彼やその部下の者らをうらむべきところはないと思っている。道理なことだ。うらみに思えば私のほうが悪いだろう。彼らはその職務をつくした。私を立派に保護した。そのうえ、私が到着の時と出発の時にはていねいだった。私は満足すべきではないか。
この善良な獄吏は、そのほどよい微笑と、やさしい言葉と、慰撫しかつ探索する目と、太い大きな手とをもってして、まったく監獄の化身であり、ビセートルが人間化したものである。私の周囲はすべて監獄である。あらゆる物の形に監獄がひそんでいる、人間の形にも、鉄門や閂の形にも。この壁は石の監獄であり、この扉は木の監獄であり、あの看守らは肉と骨との監獄である。監獄は一種の恐ろしい完全な不可分な生物であって、なかば建物でありなかば人間である。私はそれの虜《とりこ》となっている。それは私を翼でおおい、あらゆる襞《ひだ》で抱きしめる。その花崗岩《かこうがん》の壁に私を閉じこめ、その鉄の錠の下に私を幽閉し、その看守の目で私を監視する。
ああみじめにも、私はどうなるのであろう? どうされるのであろう?
二一
今はもう私は平静である。万事終った、すっかり終った。典獄が訪れてきたため恐ろしい不安におちいったが、もうそれからも出てしまった。うちあけて言えば、前には私はまだ希望をいだいていた。――今や、ありがたいことには、もう何の希望もなくなった。
次のようなことがおこったのである。
六時半が鳴ってる時に――いや、六時十五分だった――私の監房の扉はまた開かれた。褐色のフロックを着た白髪の老人がはいってきた。老人はフロックの前をすこし開いた。法衣と胸飾りとを私は見てとった。老人は司祭だった。
その司祭は監獄の教誨師《きょうかいし》ではなかった。不吉なことだった。
彼は好意ある微笑をうかべて私と向かいあって座った。それから頭を振って、目を天のほうへ、すなわち監房の天井のほうへあげた。私はその意を悟った。
「用意はしていますか。」と彼は私に言った。
私は弱い声で答えた。
「用意はしていませんが、覚悟はしています。」
それでも、私の視線は乱れ、冷たい汗が一度に全身から流れ、こめかみのあたりが脹《ふく》れあがる気がし、ひどい耳鳴りがした。
私が眠ったように椅子の上にぐらついているあいだ、善良な老人は口をきいていた。少なくとも口をきいてるように私には思えた。その唇がふるえその手が動きその目が光ってるのを、私は見たように覚えている。
扉は再度開かれた。その閂の音で、私はぼうぜんとしていたのから我にかえり、老人は話をやめた。黒い服をつけた相当な人が、典獄を従えてやってきて、私にていねいに会釈をした。その顔は、葬儀係りの役人めいたある公式の悲哀を帯びていた。彼は手に一巻の紙を持っていた。
「私は、」と彼は慇懃《いんぎん》な微笑をうかべて私に言った、「パリ法廷づきの執達吏です。検事長殿からの通牒を持って来ました。」
最初の惑乱はもう過ぎ去っていた。私はすっかりもとの沈着にかえっていた。
「検事長がそんなに私の首をほしがったのですか。」と私は答えた。「通牒を書いてくれたのは、私にとって光栄の至りです。私の死が彼に大きな喜びをもたらさんことを希望します。彼があれほど熱心に要求してる私の死が、じつは彼にとってどうでもよいことだなどとは、どうにも考えられませんからね。」
私はすっかりそう言って、それからしっかりした声でつづけた。
「読んでください。」
彼はその長い主文を、各言葉のまんなかではためらうように、各行の終りではうたうようにして、私に読んできかした。それは私の上告の却下だった。
「判決は今日グレーヴの広場で執行されることになっています。」と彼は読み終えた時まだその公文書から目をあげないで言い添えた。「正七時半にコンシエルジュリーへ出かけるのです。私と一緒に来ていただけますか。」
すこし前から私はもう彼の言葉に耳をかしていなかった。典獄は司祭と話をしていた。執達吏はその公文書の上に目をすえていた。私は扉のほうを眺めていた。扉は半開きのままになっていた……。ああ、あさましくも、廊下には四人の銃卒が!
執達吏はこんどは私のほうを見ながらその問いをくりかえした。
「ええ、いつでも。」と私は答えた。「ご都合しだいで。」
彼は私に会釈しながら言った。
「三十分ほど後に、迎えにまいりましょう。」
そこで彼らは私ひとり残して出ていった。
逃げる方法が、ああ、なんらかの方法がないものか。私は脱走しなければならない。ぜひとも、直ちに、扉や、窓や、屋根を越して、たといそれらの構桁《こうげた》に自分の肉を残そうとも!
おお、畜生、悪魔、呪われてあれ! この壁を破ることは立派な道具でしても数か月はかかるだろう。しかるに私には一本のくぎもない、一時間の余裕もない。
二二
[#地から5字上げ]コンシエルジュリーにて
調書のいうところにしたがえば、私はここに移送[#「移送」に傍点]された。
しかしその旅のことは語るだけの値打ちがある。
七時半が鳴った時、執達吏はまた私の監房の入口に現われた。彼は私に言った。「迎えに来ました。」ああ、彼だけではなく、他の人々も!
私は立ちあがった。一歩進んだ。が二歩とは進めないような気がした。それほど頭が重く足がよわっていた。それでも私は気をとりなおして、かなりしっかりと歩いていった。外に出る前に、監房のなかを最後にちょっと見まわした。――私はそれを、自分の幽閉監房を好きだった。――それから、私はそれを空虚な打ち開いたままに残して外に出た。そのため監房は妙なありさまに見えた。
けれども、監房は長くそのままではないだろう。鍵番らの言うところによれば、だれかが、ちょうどいまごろ重罪裁判廷でこしらえられている一人の死刑囚が、晩にはやってくるはずになっている。
廊下のまがりかどで、教誨師が私に加わった。彼は食事をしてきたのだった。
獄舎を出ると、典獄は懇切に私の手を握りしめ、それから私の護衛に四人の老兵を加えた。
病室の前を通る時、死にかけてる一人の老人が私に叫んだ。「また逢おうよ。」
私たちは中庭に出た。私は息をついた。それでいくらか楽になった。
長くは戸外を歩かなかった。駅次馬に引かれた馬車が第一の中庭にとまっていた。私をはじめ連れてきたあの馬車である。細長い一種の二輪馬車で、編まれてるのかと思われるほど目のこまかい針金の格子が横に通って、二つの部分に分かたれている。その二つの部分にはそれぞれ、馬車の前方と後方とに一つの扉がついている。全体がいかにも汚く黒く埃っぽくて、貧乏人の葬式馬車もそれにくらべれば成聖式の幌馬車ほどになる。
その二輪車の墓のなかにはいりこむ前に、私は中庭に一瞥《いちべつ》を、壁をも突き崩すほどの絶望の一瞥を投げた。中庭は樹木の植えてある小さな広場みたいなものだったが、徒刑囚らの時よりもなおいっそう見物人でいっぱいだった。いまからもう人だかりだ!
鎖に繋がれた者たちが出発した日と同じに、季節の雨が、こまかな冷たい雨が、降っていた。これを書いている今もなおその雨が降っている。おそらく今日じゅうは降るだろう。私の生命よりも長く降りつづくことだろう。
道は壊れていたし、中庭は泥と水とでいっぱいだった。その群集をその泥のなかに見るのが私にはうれしかった。
私たちは馬車に乗った、執達吏と一人の憲兵とは前部の室に、司祭と私と一人の憲兵とは後部の室に。騎馬の憲兵が四人馬車のまわりにしたがった。かくて、御者を別にして、一人に八人の者がついてるわけである。
私が馬車に乗ってる時、灰色の目をした老年の女が
前へ
次へ
全18ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング