彼らは言う、それはなんでもない、苦しくはない、安らかな終りだ、その種の死はごく平易なものになっていると。
では、この六週間の苦悶とこの一日じゅうの残喘《ざんぜん》とは、いったい何なのか。こんなに徐々にまたこんなに早くたってゆくこの取り返しのつかぬ一日の苦悩は、いったい何なのか。死刑台で終わってるこの責苦の段階は、いったい何なのか。
外見上、それは苦しむことではない。
けれど、血が一滴一滴つきてゆくことと、知能が一つの考えから一つの考えへと消えてゆくこととは、同じ臨終の痙攣《けいれん》ではないか。
それにまた、苦しくはないということも、確かであるか。誰かそう告げてくれた者があるか。かつて、切られた頭が血まみれのまま籠のふちに伸びあがって、それは何ともないことだ! と人々に叫んだというような話でもあるのか。
そういう死にかたをした者で、礼にやってきてこう言った者でもあるのか、これはうまく考案されてる、満足するがいい、機械はよくできていると。
それはロベスピエールなのか、ルイ十六世なのか……。
なるほど、わけもないことだ、一分間たらずのうちに、一秒間たらずのうちに、ことはなされてしまう。――が彼らはかつて、重い刃が落ちて肉を切り神経を断ち頸骨をくだく瞬間に、そこにいる者のかわりに自ら身を置いてる場合を、せめて頭のなかだけででも考えてみたことがあるか。なに、ほんの半秒のあいだだ、苦痛はごまかされると……。呪うべきかな!
四〇
妙なことに、私はたえず国王のことを考える。どんなにしても、どんなに頭を振っても、一つの声が耳に響いて、いつも私に言う。
「この同じ町に、この同じ時間に、しかもここから遠くないところに、もう一つの壮大な建物のなかに、やはりどの扉にも番人のついてる一人の男がいる。お前と同じく民衆のなかの唯一の男であって、お前が最下位にあるのと彼が最上位にあるのとの違いだけだ。彼の生涯はすべてどの瞬間も、光栄と権威と愉悦と恍惚ばかりである。彼のまわりは、愛と尊敬と崇拝とに満ちている。もっとも高い声も彼に話しかける時には低くなり、もっとも傲慢な額も彼の前には下にかがむ。彼の目にふれるものは絹と黄金ばかりである。いまごろ彼は、誰も彼の意にさからう者のない閣議にのぞんでいるか、あるいはまた、明日の狩猟のことや今晩の舞踏会のことを考えていて、宴楽は適宜の時にいつでも得られるものと安心し、自分の快楽のための仕事を他人に任せきりでいる。ところで、その男もお前と同様に肉と骨とから成っているのだ。――そして、今すぐにあの恐るべき死刑台が取り壊されるためには、生命と自由と財産と家庭とすべてがお前に返されるためには、このペンで彼が一枚の紙の隅に自署するだけでたりるし、あるいは彼の箱馬車がお前の荷馬車に出会うだけでもたりる。――そして、彼は善良だし、おそらく右のことは彼の望むところだろうし、また彼にとって何でもないことだろう!
四一
さあ、死に対して元気を出そう。その恐ろしい観念を両手に取りあげて、それをまともにじっと眺めよう。それがどんなものであるか探ってみよう。それがわれわれに求めるところは何であるか明らかにしよう。それをあらゆる方面から調べ、その謎を解き、その墳墓のなかを前もってのぞいてみよう。
最期の目をつぶると、大きな明るみと光の罩《こ》めた深淵とが見えてきて、そのなかに自分の精神は、はてしなく飛んでゆくだろう、というように私には思われる。空はそれ自身の精気で輝きわたって、そこではもろもろの星も暗い汚点となり、生者の肉眼に映るような黒ビロードの上の砂金とは見えなくて、黄金の羅紗《らしゃ》の上の黒点と見えるだろう、というように私には思われる。
あるいはまた、みじめにも、四方闇黒にとざされたいまわしい深い淵であるかもしれない。そしてそのなかに私は、影のなかに物の形がうごめくのを見ながら、たえず落ちてゆくことだろう。
あるいはまた、私は死後に目を覚まして、何か平たい湿っぽい平面にいて、暗闇のなかを、一つの頭がころがるように回転しながら進んでいくだろう。強い風に吹きやられて、あちこちでころがり動いてる他の頭にぶつかることだろう。ところどころに、何とも知れぬなまぬるい液体の、水たまりや流れがある。すべてまっくらだ。回転のあいだあいだに目を上に向けても、見えるのは闇の空ばかりで、その厚い闇の層がずっしりと垂れている。そして遠く奥のほうに、闇黒よりもひときわ黒い煙が、大きくむくむくとたちのぼっている。またその闇夜のなかに、小さな赤い火の粉が飛ぶのも見える。近づいてゆくと、それは火の鳥となる。そしてそういうのが永遠につづくだろう。
またある時、冬の暗い夜なんかに、グレーヴ刑場の死人らが自分のものたるその広場に集まる、ということもあるかもしれない。青ざめた血まみれの群集で、私もそのなかにはいってるだろう。月の光はなく、みなは低い声で話す。市庁がそこに腐食した正面と、きれぎれの屋根と、みなに無慈悲だった時計面とを見せている。広場には地獄の断頭台があって、一人の悪魔が一人の死刑執行人を処刑している。午前の四時のことだ。こんどはわれわれが周囲の群集となるのである。
おそらくそうなんだろう。しかしそれらの死人がまた出てくるとしたら、どういう形で出てくるだろうか。断ち切られた不完全な体のどこを保存してるだろうか。どこを選んでるだろうか。幽霊になるのは、頭だろうか胴体だろうか。
悲しいかな、死はいったいわれわれの魂をどうするのか。いかなる実体を魂に残すのか。魂から何を奪い、あるいは魂に何を与えるのか。魂をどこに置くのか。この地上で眺めるためにそして泣くために、肉眼を魂にかしてやることがあるのか。
ああ、司祭、そういうことを知ってる司祭、それを一人私はほしい、そして接吻すべき一つの十字架像を!
ああしかし、やはり同じことだ!
四二
私は眠らせてもらいたいとたのんで、寝床の上に身を投げだした。
実際私は頭に鬱血していて、そのために眠った。それは私の最後の眠り、この種の最後の眠りだった。
私は夢を見た。
夢のなかでは、夜だった。私は自分の書斎に二、三の友人と座っていたようだ。どの友人かは覚えていない。
妻は隣りの寝室に寝て、子供とともに眠っていた。
私たち、友人たちと私とは、低い声で話をしていた。そして自分の言ってることに自分で恐がっていた。
突然、どこか他の室に、一つの音が聞こえるようだった。何だかはっきりしない弱い異様な音だった。
友人らも私と同じくそれを聞いた。私たちは耳を澄ました。ひそかに錠前を開けてるような、こっそり閂を切ってるような音だった。
何だかぞっとするようなものがあって、私たちは恐かった。この夜ふけに盗人どもが私の家へはいりこんできたのだろう、と私たちは思った。
見に行ってみようと私たちは決心した。私は立ちあがって蝋燭を取った。友人らは順次についてきた。
私たちは隣りの寝室を通った。妻は子供と眠っていた。
それから私たちは客間に出た。何の変りもなかった。肖像はどれも赤い壁布の上に金枠のなかにじっとしていた。ただ客間から食堂へ通ずる扉が、いつものとおりでないように私には思えた。
私たちは食堂にはいった。そしてひとまわりした。私はまっ先に歩いた。階段の上の扉はよく閉まっていたし、窓もみなそうだった。炉のそばまで行って、見ると、布巾《ふきん》戸棚が開いていて、その扉が壁の隅を隠すようにそちらへひっぱられていた。
私はびっくりした。扉の後ろに誰かがいると私たちは思った。
私はその扉に手をかけて戸棚を閉めようとした。扉は動かなかった。驚いていっそう強くひっぱると、扉はふいに動いて、私たちの前に一人の老婆の姿があらわれた。背が低く、両手をたれ、目を閉じ、不動のままで、つっ立って、壁の隅にくっついたようになっていた。
何かしらひどく醜悪な感じだった。今考えても髪の毛がさかだつほどである。
私はその老婆にたずねた。
「何をしてるんだ。」
彼女は答えなかった。
私はたずねた。
「お前は誰だ。」
彼女は答えもせず、身動きもせず、目を閉じたままだった。
友人らは言った。
「はいりこんできた悪いやつらの仲間にちがいない。ぼくたちがやってくるのを聞いて、みんな逃げだしてしまったが、こいつは逃げきれないで、そこに隠れたんだ。」
私は再び彼女にたずねかけたが、彼女はやはり声も出さず、動きもせず、見もしなかった。
私たちの誰かが彼女を押し伏せた。彼女は倒れた。
彼女は丸太のように、命のないもののように、ばったり倒れた。
私たちはそれを足先で動かしてみた。それから誰か二人がかりで彼女を立たせて、また壁によりかからせた。彼女にはまったく生きてるしるしもなかった。耳のなかに大声でどなりつけてやっても、聾者のように黙っていた。
そのうちに私たちはじれだしてきた。私たちの恐怖のなかには憤怒の情がまじっていた。誰か一人が私に言った。
「あごの下に蝋燭をつけてやれ。」
私は彼女のあごの下に燃えてる芯を持っていった。すると彼女は片方の目をすこし開いた。空虚な、どんよりした、恐ろしい、何も見てとらない目つきだった。
私は炎をのけて言った。
「ああこれで、返事をするだろうな、鬼婆め。誰だお前は?」
彼女の目はひとりでに閉じるようにまた閉じてしまった。
「これはどうも、あまりひどい。」と友人らは言った。「もっと蝋燭をつけてやれ、もっとやれ。ぜひとも口をきかせなくちゃいけない。」
私はまた老婆のあごの下に火をさしつけた。
すると、彼女は両方の目を徐々に開き、私たち一同をかわるがわる眺めて、それからふいに身をかがめながら、氷のような息で蝋燭を吹き消した。と同時に、暗闇のなかで、私は三本の鋭い歯が手にかみつくのを感じた。
私はふるえあがり冷たい汗にまみれて、目を覚ました。
善良な教誨師が寝台のすそのほうに座って、祈祷書を読んでいた。
「私は長く眠りましたか。」と彼に私はたずねた。
「あなた、」と彼は言った、「一時間眠りましたよ。あなたの子供を連れてきてあります。隣りの室にいて、あなたを待っています。私はあなたを呼び起こしたくなかったのです。」
「おお!」と私は叫んだ、「娘、娘を連れてきてください。」
四三
彼女はいきいきとして、ばら色で、大きな目をもっていて、美しい!
小さな長衣を着せられていたが、それがよく似合う。
私は彼女をつかまえ、両腕に抱きあげ、膝の上に座らせ、髪に接吻した。
なぜ母親と一緒には?――母は病気だし、祖母も病気だ。それでよい。
彼女はびっくりした様子で私を見ていた。なでられ、抱きしめられ、やたらに接吻されながら、なされるままになっていた。けれどときどき、片隅で泣いてる女中のほうを、不安そうに見やった。
ついに私は口がきけた。
「マリー、」と私は言った、「私のマリーや!」
私はむせびなきのこみあげてくる胸に激しく彼女を抱きしめた。彼女は小さな声をたてた。
「おお、苦しい、おじちゃま。」と彼女は私に言った。
おじちゃま[#「おじちゃま」に傍点]! かわいそうに、彼女はもうやがて一年間も私に逢わずにいる。彼女は私を、顔も言葉も声の調子も忘れたのだ。それにまた、このひげとこの服装とこの青ざめた顔色とで、誰が私をそれと見てとることができたろう。おお、そこにだけは生きながらえたいと思っていたその記憶のなかからも、私はもう消えてしまった。おお、もう父でもなくなった。子供の言葉のあの一語、おとなの言葉のなかに残ることができないほどやさしいあの一語、パパ[#「パパ」に傍点]というあの一語、それをももう聞かれないように私は定められてしまったのだ。
それでも私は、なおも一度、ただ一度、その一語をあの口から聞くことができさえすれば、残り四十年の生涯を奪われようと不足には思わない。
「ねえ、マリー、」と私は彼女の小さ
前へ
次へ
全18ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング