ネ両手を一緒に自分の手のなかにはさんで言った、「お前は私をちっとも知らないのかい。」
彼女はその美しい目で私を眺めて、そして答えた。
「ええそうよ。」
「よく見てごらん。」と私はくりかえした。「なんだって、私が誰だかわからないのかい。」
「ええ。」と彼女は言った。「おじちゃまよ。」
ああ、世にただひとりの者だけを熱愛し、全心をかたむけてそれを愛し、それが自分の前にいて、むこうでもこちらを見また眺め、話したり答えたりしてるのに、こちらが誰であるか知らないとは! その者からだけ慰安を求めていて、死にかかってるので、その者を必要としてるのに、むこうはそれを知らない世にただひとりの者であろうとは!
「マリー、」と私はまた言った、「お前にはパパがあるの。」
「ええ。」と子供は言った。
「では、今どこにいるの。」
彼女はびっくりした大きな目をあげた。
「ああおじちゃま知らないの。死んだのよ。」
それから彼女は声をたてた。私は彼女をあやうく取り落とそうとしたのだった。
「死んだって!」と私は言っていた。「マリー、死んだとはどういうことか知ってるのかい。」
「ええ。」と彼女は答えた。「地の下にそして天にいるのよ。」
彼女は自分でつづけて言った。
「あたし、ママのお膝で、朝と晩、パパのため神様にお祈りするの。」
私は彼女の頬に接吻した。
「マリー、私にお前の祈りを言っておくれ。」
「だめよ、おじちゃま。お祈りって、昼間言うもんじゃないの。今晩おうちにいらっしゃい。言ってあげるわ。」
それでもう十分だった。私は彼女の言葉をさえぎった。
「マリー、お前のパパは、私だよ。」
「え!」と彼女は言った。
私は言いそえた。
「私がお前のパパでいいかい。」
子供は顔をそむけた。
「いいえ、パパはずっときれいだったわ。」
私は彼女に接吻と涙とをあびせた。彼女は私の腕からのがれようとしながら叫んだ。
「おひげが痛い。」
そこで私はまた彼女を膝の上に座らせて、しきりに眺めて、それからたずねかけた。
「マリー、お前は字が読めるの。」
「ええ。」と彼女は答えた。「ちゃんと読めるわ。ママはあたしに字を読ませるの。」
「では、すこし読んでごらん。」と私は言いながら、彼女が小さな片手にもみくちゃにしている紙きれを指さした。
彼女はそのかわいい頭をふった。
「ああ、おとぎばなしきり読めないの。」
「でも読んでごらん。さあ、お読みよ。」
彼女は紙を広げて、指で一字一字読みはじめた。
「は、ん、け、つ、はんけつ……」
私はそれを彼女の手からつかみ取った。彼女が読んできかせるのは私の死刑宣告文だった。女中がそれを一スーで買ったのだ。が、私にははるかに高価なものだった。
私がどういう気持を覚えたかは、言葉にはつくされない。私の激しい仕打ちに彼女はふるえていた。
ほとんど泣きだしかけていた。が、突然私に言った。
「紙を返してよ。ね、今のはうそね。」
私は彼女を女中にわたした。
「つれていってくれ。」
そして私は陰鬱なさびしい絶望的な気持で椅子に身をおとした。いまこそ彼らはやってきてもよい。私にはもう何の未練もない。私の心の最後の糸のひとすじも切れた。彼らがなさんとする事柄に私はちょうどふさわしい。
四四
司祭は善良な人だし、憲兵もそうである。子供をつれていってほしいと私が言ったとき、彼らは一滴の涙を流したようだった。
済《す》んだ。いまや私はしっかりと身を持さなければならない。死刑執行人のこと、護送馬車のこと、憲兵らのこと、橋の上の群集、河岸の上の群集、人家の窓の群集のこと、そこで落ちた人の頭が敷きつめてあるかもしれないあの痛ましいグレーヴの広場に、私のために特に備えられるもののこと、それをしっかりと考えなければならない。
そういうものに対して覚悟をきめるために、まだ一時間ほどあると私は思う。
四五
群集はみな笑うだろう、手をたたくだろう、喝采《かっさい》するだろう。しかも、喜んで死刑執行を見に駆けてくるそれらの自由なそして看守などを知らない人々のうちには、その広場にいっぱいになる群立った頭のうちには、私の頭の後を追っていつかは赤い籠のなかに転げ込むように運命づけられてる頭が、一つならずあるだろう。私のためにそこへ来てるがやがて自分のためにそこへ来るようになる者が、一人ならずあるだろう。
それらの宿命的な人々のために、グレーヴの広場のある地点に、一つの宿命的な場所が、人をひきつける一つの中心が、一つの罠《わな》がある。彼らはその周囲をまわりながらついに自らそこに陥ってゆくのだ。
四六
私の小さなマリーよ!――彼女は遊びにつれもどされた。いま彼女は辻馬車の扉口から群集を眺めていて、もうこのおじちゃま[#「おじちゃま」に傍点]のことは考えてもいない。
おそらく私は彼女のためにいくページか書くひまがまだあるだろう。他日彼女がそれを読んでくれて、そして十五年もたったら今日のために涙を流してくれるようにと!
そうだ、私は自分の身の上を自分で彼女に知らせなければならない。私から彼女へ残す名前がなぜ血ににじんでいるかを、彼女へ知らせなければならない。
四七
予が経歴
[#ここから2字下げ]
発行者曰――ここに該当する原稿を探したが、まだ見出せない。おそらく、次の記事が示すように、受刑人はそれを書くひまがなかったものらしい。彼が書こうと思いついた時は、もう遅かった。
[#ここで字下げ終わり]
四八
[#地から5字上げ]市庁の一室にて
市庁にて!――私はこうして市庁に来ている。呪うべき道程はなされた。広場はすぐそこにある。窓の下には嫌悪すべき人群が吠えている、私を待っている、笑っている。
私はいかに身を固くしても、いかに身をひきしめても、やはり気がくじけてしまった。群集の頭越しに、黒い三角刃を一端に具えてるあの二本の赤い柱が、河岸の街灯のあいだにつっ立っているのを見た時、私は気がくじけてしまった。私は最後の申立てをしたいと求めた。人々は私をここに置いて、検事か誰かを呼びに行った。私はそれが来るのを待っている。とにかくそれだけ猶予を得るわけだ。
これまでのことを述べておこう。
三時が鳴ってる時、時間だと私に知らせに人が来た。私は六時間前から、六週間前から、六か月も前から、他のことばかり考えていたかのように、ぞっと震えた。何だか意外なことのような感じがした。
彼らは私にいくつもの廊下を通らせ、いくつもの階段を降りさせた。彼らは私を一階の二つのくぐり戸のあいだに押し入れた。薄暗い狭い円天井の室で、雨と霧の日の弱い明るみだけがほのかにさしていた。室のまんなかに椅子が一つあった。彼らは私に座れと言った。私は座った。
扉のそばと壁にそって、司祭と憲兵らのほかになお、数人の者が立っていた。三人のあいつらもいた。
三人のうち最初のは、いちばん背が高く、いちばん年長で、あぶらぎって赤い顔をしていた。フロックを着て、変な形の三角帽をかぶっていた。そいつがそうだった。
そいつが死刑執行人、断頭台の給仕だった。他の二人はそいつについてる助手だった。
私が腰をおろすや否や、その二人が後ろから猫のように近寄ってきた。それから突然、私は刃物の冷たさを髪のなかに感じた。はさみの音が耳に響いた。
私の髪の毛は手当りしだいに切られて、ひと房ずつ肩の上に落ちた。三角帽の男はそれを太い手で静かにはらいのけた。
周囲では人々が低い声で話していた。
戸外には、空中にうねってる振動のような大きな音がしていた。私ははじめそれを河の音と思った。しかしどっとおこる笑い声を聞いて、群集であることがわかった。
窓のそばにいて手帳に鉛筆で何か書いてた若い男が、看守の一人にそこでなされてる事柄は何というのかたずねた。
「受刑人の身じたくです。」と看守は答えた。
それが明日の新聞に出ることを私は悟った。
突然助手の一人は私の上衣を脱ぎ取った。もう一人の助手は私の垂れてる両手をとらえ、それを背後にまわさせた。そして私は合わさってるその両の手首のまわりに、綱の結び目が徐々にできてくるのを感じた。と同時に、一方の助手は私のネクタイをといた。昔の私自身の唯一のなごりの布きれであるバチスト織のシャツに、彼はちょっと躊躇《ちゅうちょ》したらしかった。が、やがてそのシャツのえりを切りはじめた。
私はその恐ろしい用心を見てとり、首にふれる刃物の感触が身にしみて、両肱がふるえ、息をつめたうなり声をもらした。えりを切ってる男の手はふるえた。
「どうか、ごめんください。」と彼は私に言った。「どこか痛かったのですか。」
その死刑執行人はきわめて穏和な人間だ。
群集は外部でますます高くわめいていた。
顔に吹出物のある大きな男は、私に嗅がせるため酢にひたしたハンカチを差し出した。
「ありがとう。」と私はできるだけ強い声で彼に言った。「それにはおよびません。大丈夫です。」
すると彼らの一人は身をかがめて、小股でしか歩かれないようなふうに、私の両足を巧妙にゆるく縛った。その綱は両手の綱へ結びつけられた。
それから大きな男は、上衣を私の背に投げかけ、その両袖の先を私のあごの下でゆわえた。なすべきことはすっかりなされた。
そこで司祭が十字架像を持って近寄ってきた。
「さあ、あなた。」と彼は私に言った。
死刑執行人の助手たちは私の両脇をとらえた。私は持ちあげられて歩いた。私の足には力がなく、両方に膝が二つずつもあるかのようにまがった。
その時、外部に通ずる戸口の両の扉がさっと開かれた。激しい喧騒の声と冷たい空気と白っぽい光とが、影のなかに私のところへまではいりこんできた。私は薄暗い戸口の奥から、雨のなかをすかして、すべてを急に一度に見てとった。パレ・ド・ジュスティスの大階段の斜面にごっちゃに積み重なってる人々の、喚き立ててる無数の頭。右手には、入口と同平面に、戸口が低いので私には馬の前足と胸としか見えないが、騎馬の憲兵の一列。正面には、展開している一隊の兵士。左手には、急なはしごが立てかけてある荷馬車の後部。すべて監獄の戸口にはめこまれた一幅の醜悪な画面だ。
その恐るべき瞬間のために私は勇気をたくわえておいたのだった。私は三歩進んで、くぐり戸の出口にあらわれた。
「あれだ、あれだ!」と群集は叫んだ。「とうとう、出てきた。」
そして私に近い者らは手をたたいた。人民からいかに愛されてる国王であろうと、これほどの歓迎はされないだろう。
車はふつうの荷馬車で、痩《や》せこけた馬が一頭つけられていて、ビセートル付近の野菜作りらが着るような赤い模様の青の上っ張りを着てる、荷馬車ひきが一人ついていた。
三角帽の大きな男がまっ先に乗った。
「こんにちは、サンソン先生!」と鉄柵にぶらさがってる子供らは叫んだ。
一人の助手が彼につづいて乗った。
「ひやひや、どんたく先生!」と子供らはまた叫んだ。
彼らは二人とも前部の腰かけに座った。
こんどは私の番だった。私はかなりたしかな態度で馬車に乗った。
「しっかりしてる!」と憲兵のそばの一人の女が言った。
その不逞《ふてい》な賛辞は私を元気づけた。司祭が私のそばに来て席を占めた。私は馬のほうに背を向けて後ろむきに、後部の腰かけに座らされたのだった。そういう最後の注意を見てとって私はぞっとした。
彼らはそれを人情のあることだとしている。
私はあたりを見まわしてみた。前には憲兵ら、後にも憲兵ら、それから群集に群集に群集、広場の上はまるで人の頭の海だった。
鉄門のところに、騎馬の憲兵の一隊が私を待っていた。
将校は命令をくだした。荷馬車とつきそいの行列とは、いやしい群集の喚声で押し進められるように動きだした。
鉄門を通過した。馬車がポン・トー・シャンジュのほうへまがった時、広場じゅうが敷石から屋根に至るまでどっとわき立ち、ほうぼうの橋と河岸とがこたえ合
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