繧ェ再現した。七月革命後、人はもはやグレーヴの刑場で首を切ることをあえてしかねたし、恐れていたし、卑怯だったので、次のようなことがなされた。最近のこと、一人の男が、一人の死刑囚が、デザンドリューという名前の男だったと思うが、ビセートルの監獄で取りあげられた。彼は四方閉ざされ海老錠と閂がかけられている二輪車の一種の籠のなかに入れられた。そして前後に一人ずつ憲兵がつきそい、あまり音もたてず人だかりもせず、サン・ジャックのさびしい市門へ運ばれた。まだ十分明るくならないうち朝の八時にそこまで行くと、新しく組み立てられたばかりの断頭台が一つ立っていた。公衆としてはただ十二、三人の子供らが、近くの小石の山の上に意外な機械のまわりに集まっていた。人々はいそいで男を籠馬車から引き出し、息をつくひまも与えず、ひそかに狡猾《こうかつ》に見苦しくもその首を盗み切った。そしてそれが高等司法の公けのおごそかな行為と呼ばれる。いやしむべき愚弄である。
法官らはいったい文明という言葉をどう解釈しているのか。われわれはいったいいかなる時代にあるのか。策略と瞞着とに堕した司法、方便に堕した法律、奇怪なるかな!
死刑に処せられるということは、社会からそういうふうに陰険に取り扱われるからには、きわめて恐るべきことであるにちがいない。
とはいえ実のところ、右の死刑執行は全然秘密にされたものでもなかった。その朝、例のとおり、パリの四つ辻で死刑決定の報道が呼売された。そういうものを売って暮らしている人があるらしい。嘘のようだが実際、一人の不運な男の罪悪や、その懲罰や、その責苦や、その臨終の苦悶などで、一つの商品が、一つの印刷物が作られて、一スーで売られている。血のなかにさびたその銅貨ほどいまわしいものが、他に何かあるだろうか。それを拾い取る者が誰かあるだろうか。
事実はこれでもう十分だ。あまりあるほどである。すべてそれらは嫌悪すべきことではないか。死刑に左袒《さたん》すべき余地がどこにあるか。
われわれはこの質問を真剣に提出する。返答を求めて提出する。饒舌《じょうぜつ》な文学者へではなく、刑法学者へ提出する。われわれの知ってるところでは、死刑の妙味をまったく他の問題として逆説の主題とする人々がいる。また、死刑を攻撃する誰かれを憎むというだけで死刑に賛成する人々もいる。彼らにとってはそれはなかば文学的な事柄であり、個人的な事柄であり、固有名詞的な事柄である。それは羨望者であって、善良な法律家にも偉大な芸術家にもともに現われてくる。フィランジエリに対してはジョゼフ・グリッパのような者が常にいるとともに、ミケランジェロに対してはトレジアーニのような者が常におり、コルネイユに対してはスキュデリーのような者が常にいる。
われわれが言葉をかけるのは、そういう者へではなくて、本来の法律家へであり、弁証論者へであり、理論家へであり、死刑のために、その美と善の恩恵とのために、死刑に賛成する人々へである。
ところで彼らは多くの理由をあげる。
裁判し処刑する側の人々は、死刑を必要だと言う。第一に、なぜかなれば、社会共同体からすでにその害となりなお将来害となりうる一員を除くことは大事なことだと。――しかし、もしそれだけのことであったら、終身懲役で十分だろう。死が何の役にたつか。監獄では脱走の恐れがあるというならば、巡警をなおよくすればよい。鉄格子の強さでは不安心だというならば、どうして他に動物園などを設けておくのか。
看守で十分なところには、死刑執行人の要はない。
けれども、社会は復讐しなければならない。社会は罰しなければならない、と次に彼らは言う。――しかし、どちらもそうではない。復讐は個人のことであり、罰は神のことである。
社会は両者の中間にある。懲罰は社会より以上であり、復讐は社会より以下である。それほど偉大なこともそれほど微小なことも社会にはふさわしくない。社会は「復讐するために罰する」ことをしてはいけない。改善するために矯正する[#「改善するために矯正する」に傍点]ことをなすべきである。刑法学者の慣用の文句をそう変えれば、われわれも了解し同意する。
第三の最後の理由、実例論が残っている。すなわち、実例を見せてやらなければならないと。罪人がいかなる目にあうかを示して、同様な心をおこす人々を恐れさせなければならないと。――これが多少調子の差はあるけれど、フランスの五百の検事局の論告が千篇一律に用いるほとんどそのままの文句である。ところで、われわれは実例をまず否定する。刑罰を示して所期の効果を生ずるというのを否定する。刑罰を示すことは、民衆を訓育するどころか、民衆の道徳を頽廃させ、その感受性を滅ぼし、したがってその徳操を滅ぼす。例証はたくさんあって、いちいちあげていたならば推理のじゃまとなるほどである。でもここにその無数のうちの一つを、最近の事実であるから持ち出してみよう。今これを書いている日からわずか十日前のことである。謝肉祭最終日の三月五日のことである。サン・ポルで、ルイ・カミュという放火犯人の死刑執行のすぐ後に、仮面行列の一群がやってきて、まだ血煙を立てている断頭台のまわりで踊ったのである。実例を示すがいい。謝肉祭最終日は諸君の鼻先で笑っている。
もし諸君が、経験にもかんがみず、実例という古めかしい理論に固執するならば、十六世紀をとりもどすがいい。本当に畏怖すべきものとなって、多様の刑罰をとりもどし、ファリナッキをとりもどし、審裁刑吏らをとりもどし、首吊台、裂刑車、火刑台、吊刑台、耳切りの刑、四つ裂きの刑、生埋めの穴、生煮の釜、などをとりもどすがいい。千客万来の店として、たえず新しい肉を備えている死刑執行人のいまわしい肉店を、パリのあらゆる四つ辻にとりもどすがいい。モンフォーコンの刑場を、その十六本の石の柱と、あらあらしい平段と、骸骨のあなぐらと、梁と、鉤《かぎ》と、鎖と、死体串と、点々と烏がとまってる白堊の本堂と、首吊柱の分堂とをともにとりもどし、北東の風でタンプル大通り一帯にさっと広がる、その屍《しかばね》の臭気をとりもどすがいい。パリの死刑執行人のあの大きな小屋を、同じ強さと不朽の形のままで、とりもどすがいい。よきかな! それこそ大いなる実例である。よく腑に落ちる死刑である。多少規模のある刑罰様式である。それこそ嫌悪すべきものである。が、しかし怖るべきものである。
あるいはまた、イギリスのようにするがいい。商業国たるイギリスでは、ドーヴァーの海岸で密輸入者を一人捕えると、それを実例として[#「実例として」に傍点]首吊りにし、実例として[#「実例として」に傍点]首吊台にさらしておく。しかし天気の不順のために死体がいたむことがあるので、瀝青《れきせい》を塗った布で死体を注意深く包んで、たびたび手入れをしないでよいようにする。倹約の国なるかな、首を吊られた死体に瀝青を塗るとは!
けれどもそれはまだ多少理屈に合う。実例論に対するもっとも人情的な理解のしかたである。
しかし諸君は郭外の大通りのもっとも寂しい片隅で一人の憐れな男の首をみじめにも断ち切る時、一つの実例を示すものだとまじめに考えているのか。グレーヴの刑場で真昼間なら、まだよい。しかしサン・ジャック市門で、朝の八時に! そこを誰が通るか。そこに誰が行くか。そこで一人の男が殺されていることを誰が知るか。そこに一つの実例を示されていることを誰が気づくか。誰にむかっての実例ぞ。明らかに大通りの樹木にむかってであろう。
諸君にはわからないのか、諸君の公けの処刑はこそこそとなされていることが。諸君は自ら身を隠していることが。諸君は自分の仕事を恐れ恥じてることが。この告知の後は正理を知るべし[#「この告知の後は正理を知るべし」に傍点]を諸君は滑稽《こっけい》に口ごもっていることが。諸君は内心動揺し困却し心配し、自分が正当だとは信じかね、万般の疑惑にとらえられ何をなしてるかもよくわからないでただ旧慣にしたがって首を切っているということが、諸君にはわからないのか。諸君の先人らが、古い議員らが、あれほど平然たる良心をもって果たしていた血の使命について、諸君は少なくともその道徳的および社会的感情を失ってしまっているということを心の底に感じないのか。先人たちよりもしばしば諸君は、家に帰って夜の安眠ができないのか。諸君以前にも極刑を指令した人々がある。しかし彼らは法と正と善とのうちに自負するところがあった。ジュヴネル・デ・ジュルサンは自ら審判者だと信じ、エリー・ド・トレットは自ら審判者だと信じ、ローバルドモンやラ・レーニーやラフマスなどでさえ、みな自ら審判者だと思っていた。が、諸君は心底において、自分は殺害者ではないという確信さえもたない。
諸君はグレーヴの刑場を去ってサン・ジャック市門におもむき、群集を避けて寂寞《せきばく》の地を選び、白昼よりも薄明の頃を好んでいる。もはや確固たる信念でことをなしてはいない。諸君は隠れひそんでいる、と私はあえて言う。
死刑に賛成のあらゆる理由は、かくのごとく破れてしまう。検事局のあらゆる論法は、かくのごとく無に帰してしまう。それらのあらゆる論告のはしくれは、かくのごとく一掃されて灰燼《かいじん》になる。すべてのへりくつは論理の鎧袖一触《がいしゅういっしょく》で解決される。
法官らが、社会を保護するという名目のもとに、重罪公訴を保証するという名目のもとに、実例を示すという名目のもとに、ねこなで声で懇願しながら、陪審者たり人間たるわれわれにむかって罪人の首を求めにくることが、もはやないようにしたいものである。すべてそれらの名目は、美辞麗句であり空太鼓《からだいこ》であり空言《そらごと》である。そのふくらみは針でひと突きすれば縮んでしまう。その描かぶりの饒舌《じょうぜつ》の下にあるものは、冷酷、残忍、野蛮、職務熱心を示そうとの欲望、俸給を得るの必要、などばかりである。不徳官吏ども、口をつぐむがいい。裁判官のもの静かな足の下に死刑執行人の爪がのぞいている。
非道な検事はいったいどういうものであるかと考える時、人はなかなか冷静ではいられない。それは他人を死刑台に送ることによって生活している人間である。本官の刑場用達人である。そのうえ、文章や文学にうぬぼれをもってる一個の紳士で、弁舌が巧みであり、あるいは弁舌が巧みだと自ら思っており、死を結論する前にラテン語の詩を一、二行必要に応じて暗唱し、効果を与えることにつとめ、他人の生命が賭けられてる事柄に、みじめなるかな、自分の自負心だけを問題とし、特別な模範を、およびもつかない典型を、その古典ともいうべき人物をもっていて、某詩人がラシーヌを目ざしあるいはボアローを目ざすように、ベラールとかマルシャンジとかいう目標をもっている。弁論では断頭台のほうをねらい、それが彼の役目であり本職である。彼の論告は彼の文学的作品であって、彼はそれに比喩の花を咲かせ、引照の香りをつけ、聴衆を感心させ婦人を喜ばせるものとなさなければならない。彼は優雅な口調とか凝《こ》った趣味とか精練された文体などという、田舎にとってはまだごく新しいくだらないものをたくさん持っている。彼はドリーユ一派の悲壮詩人らとほとんど同じほど適宜な言葉をきらう。彼が事物をその本来の名前で呼ぶ気づかいはない。ばかなこと! むき出しにすればいやになるような観念をすべて、彼はすっかり付加形容の言葉で仮装させる。サンソン氏をも見栄《みば》えよくする。肉切り庖丁を紗の布で包む。跳ね板に色をぼかす。赤い籠を婉曲な言いかたでごまかす。それが何のことだかもうわからないほどになる。穏やかな上品なものとなる。彼が夜分書斎で、六週間後には一つの死刑台を建てさせるべき長広舌をゆっくりとできるかぎり推敲しているところを、想像してみるがいい。法典のもっとも痛ましい箇条に一被告の頭をはめこもうとして汗水流している彼を、眼前に描きだしてみるがいい。粗製の法律で一人のみじめな男の首を鋸挽《のこぎりび》きしている
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