゙を、眼前に描きだしてみるがいい。寓意や提喩の泥のなかに二、三の有毒な文体を煮こんで、それから一人の男の死を一生懸命にしぼりだし煎じだそうとしている彼に、目を止めてみるがいい。彼がその論告を書いている一方には、そのテーブルの下に、影のなかに、彼の足もとに、たぶん死刑執行人がうずくまっていることだろう。そして彼はときどきペンを休めて、主人が自分の犬に言うように、死刑執行人に言うだろう、
「静かに、静かにしておれ、いまに骨をしゃぶらしてやるよ。」
しかるに、私的生活ではこの法官も、ペール・ラシェーズのあらゆる墓碑の銘にあるように、正直な男で、よい父で、よい子で、よい夫で、よい友であることができる。
法律がそれらの悲しむべき職務を廃する日の近からんことを、希望しようではないか。われわれの文明の空気だけでも、時がたてば死刑を磨滅してしまうはずである
死刑の弁護者らは死刑がどんなものであるかをよく考えてみなかったのではないか、と思われることがよくある。社会が自分で与えもしなかったものを取り去ることについて僭有《せんゆう》しているその無法な権利を、取り返しのつかない刑罰のうちでももっとも取り返しのつかないその刑罰を、たといどんな犯罪であろうともその犯罪と、少しく比較計量してみるがよい。
二つのことのうちまず第一のことから言おう。
諸君がやっつけるその男は、この世に家族も親戚も朋輩ももたない者であることもあろう。その場合には彼は、なんらの教育も訓育も、精神上の世話も心情上の世話も受けたことがない。しかるに諸君は、そのみじめな孤児をいかなる権利で殺すのか。幼年時代に幹も支柱もなくて地面をはいまわったからといって彼を罰するのか。孤立のまま捨てておかれたのを無法にも彼のせいだとするのか。彼の不幸を彼の罪悪とするのか。彼は自分がどういうことをしてるかを誰からも教えられはしなかった。彼はなにも知らない。彼の罪はその運命にあって、彼にはない。諸君は一人の無辜《むこ》の者をやっつけるのである。
またその男が家族をもっていることもあろう。その場合に諸君は、彼の首を切ることが彼だけしか傷つけないと思うのか。彼の父や母や子供たちは血を出さないと思うのか。そうではない。彼を殺すことによって諸君は彼の全家族の首を切る。この場合にもやはり諸君は無辜の人々をやっつけるのである。
拙劣な盲目の刑罰よ、どちらに向いても無辜の者をやっつける。
その男を、家族をもってるその罪人を、保管してみるがいい。彼は監獄のなかで家族のためになお働くことができるだろう。しかし墓の下からではどうして家族を生かすことができよう。その小さな男の子たちが、その小さな女の子たちが父親を奪われてどうなってゆくか、言い換えればパンを奪われてどうなってゆくか、それを考えておののかないでいられるか。諸君はその子供たちをめざして、男のほうは徒刑場に、女のほうは魔窟に、十五年もたったら備えつけるつもりででもいるのか。おお、憐れな無辜の者たちよ!
植民地では、死刑の判決で一人の奴隷が殺される時、その奴隷の所有者へ千フランの賠償金が出される。ああ諸君は主人の損害をあがなって、家族へはなんらの賠償もしない。この場合にもまた諸君は、本当の所有者から一人の男を奪ってるのではないか。彼は奴隷が主人に対するのよりもはるかに神聖な名目で、その父親の所有物であり、妻の財産であり、子供たちのものであるではないか。
われわれはすでに諸君の法律を殺害だと認定した。そしてここにまた窃盗だと認定する。
もう一つのことを言おう。その男の魂、それを考えてみるがいい。その魂がどういう状態にあるか、諸君は知っているか。諸君はあえてそれをかく軽率に追いはらおうとするのか。昔は少なくとも、ある信仰が民衆のなかに流布していた。最期のまぎわに、空中に漂っている宗教的息吹がもっともかたくなな者をもやわらげることができた。受刑人はまた同時に悔悛者だった。社会が彼に一つの世界を閉ざす時、宗教は彼に他の世界を開いてくれた。どの魂も神を覚えた。死刑台は天の国境にすぎなかった。しかし、民衆の多くが信仰を失っている今日、諸君は死刑台の上にいかなる希望をおいてくれているか。昔はおそらく諸大陸を発見したろうが今は港に朽ちている古船のように、あらゆる宗教はかびに腐食されている。今は小さな子供たちも神をあざけっている。いかなる権利で諸君は、受刑人の薄暗い魂を、ヴォルテールやピゴー・ルブランがこしらえあげたままの魂を、諸君自身も信じかねている何物かのなかに投げこむのか。諸君はそれらの魂を監獄の教誨師《きょうかいし》に引きわたす。それはむろん立派な老人ではあろうが、しかし自ら信仰をもっているか、そして人に信仰をもたせうるか。彼はその崇高な仕事を一つの賦役として機械的にやってはしないか。囚人馬車のなかで死刑執行人と相並んでるその好々爺《こうこうや》を、一個の司祭だと諸君はいうのか。魂をも才能をも十分そなえた一著述家がわれわれより前にこう言っている、懺悔聴聞者を追い払った後もまだ死刑執行者を残しておくのはいまわしいことである[#「懺悔聴聞者を追い払った後もまだ死刑執行者を残しておくのはいまわしいことである」に傍点]。
頭のなかでしか推理しないある傲慢な人々が言うように、これはもとより「感情的な理由」にすぎない。しかしわれわれの見るところでは、このほうがさらに立派な理由である。われわれはたいてい理性上の理由よりも感情上の理由を取りたい。そのうえ両者は常に支持しあうものである。それを忘れてはいけない。『犯罪論』は『法の精神』の上に接木《つぎき》されたものである。モンテスキューはベッカリアを生んだ。
理性はわれわれに味方し、感情はわれわれに味方し、経験もまたわれわれに味方する。死刑が廃止されている模範的な国家では、重罪の数は年ごとに漸減している。よく考えてみるがいい。
けれどもわれわれは、議会があれほど夢中になって唱え出したように、死刑を今ただちに突然に完全に廃してしまいたいというのではない。いな、われわれは、あらゆる試みと注意と研究とをもって慎重にやりたいのである。もとよりわれわれの望むところは、単に死刑の廃止ばかりではなく、徹頭徹尾、閂から肉切り庖丁に至るまで、あらゆる形における刑罰の完全な改訂である。そしてそういう仕事が立派に仕上げられるためには、時間は必要な要素の一つである。なおわれわれはこの問題については、実行できると思っている一つのまとまった考えを、他のところで詳述するつもりでいる。けれども、貨幣贋造や放火や加重情状付窃盗などの件に対する部分的な死刑廃止とは引き離して、今からただちに求めたいことは、あらゆる重大な事件において裁判長が陪審員らにむかって、「被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか[#「被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか」に傍点]」という問いをかけることにし、「被告は情熱によって行動した[#「被告は情熱によって行動した」に傍点]」と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい。そうすれば少なくとも、いまわしいある種の処刑ははぶけるだろう。ユルバックやドバケルなどは助かっただろう。オセロのごとき人物を断頭台にのぼらせることはなくなるだろう。
それにまた、誤解のないようにしてほしいことには、この死刑の問題は日に日に成熟している。やがては社会全体がわれわれと同様にそれを解決するだろう。
もっとも頑迷な刑法学者らにも留意してもらいたいことには、一世紀このかた死刑は漸次減退している。死刑はほとんど穏和になっている。それは老衰のきざしであり、衰弱のきざしであり、やがて死滅するしるしである。責め道具はなくなった。刑車はなくなった。首吊柱はなくなった。ふしぎなことではあるが、断頭台そのものも一つの進歩である。
断頭台創案者ギヨタン氏は仁者である。
実際、恐ろしい歯をそなえて、ファリナッキやヴーグランを、ドランクルやイザーク・ロアゼルを、オペードやマショーをむさぼり食う、恐ろしい正義の神テミスも、健康が衰えてき、痩《や》せ細っている。もう死にかけている。
はやすでにグレーヴの刑場もそれをきらっている。名誉を回復しようとしている。この古い吸血婆たるグレーヴは、七月革命の折には品行をつつしんだ。それ以来彼女はよい生活を望み、最後のみごとな行いを涜《けが》すまいとしている。三世紀前からあらゆる死刑台に身を売った彼女も、羞恥心を覚えて以前の商売を恥じている。いやしい名前をなくしたいと思っている。死刑執行人をこばみ、敷石を洗っている。
現在では、死刑はもうパリの外に出ている。しかるに、ここに言っておきたいことには、パリから出ることは文明から出ることである。
あらゆる兆候はわれわれに味方する。あの忌《い》むべき機械、なおよくいえば、ギヨタンにとってはちょうどピグマリオンに対するガラテアのようなものであるあの木と鉄との怪物も、落胆し渋面しているようである。ある点から見れば、上に述べた恐ろしい処刑も喜ばしいきざしである。断頭台は躊躇《ちゅうちょ》している。切りそこなうまでになっている。死刑の古い機械は全部調子が狂っている。
けがらわしいその機械はフランスから立ち去るだろう。われわれはそれを期待する。もしよろしくば、われわれのきびしい打撃を受けて、足をひきずりながら立ち去るだろう。
そして他の土地へ行って、ある野蛮な民衆のところへ行って、優遇を求めるがよい。トルコへでもない。トルコは文明の風に浴している。未開の民へでもない。彼らでさえそれをきらっている。(タヒチ島の州会は最近死刑を廃した。)それよりなお数段文明の階段をくだって、スペインかロシアへでも行くがよい。
過去の社会の殿堂は、司祭と国王と死刑執行人との三つの柱に支えられていた。しかるに、すでに長い以前に一つの声が言った、神々は去れり[#「神々は去れり」に傍点]と。最近他のもう一つの声が起こって叫んだ。国王らは去れり[#「国王らは去れり」に傍点]と。いまや第三の声が起こって言うべき時である。死刑執行人は去れり[#「死刑執行人は去れり」に傍点]と。
かくて旧社会は一塊一塊と崩れてしまうだろう。かくて天意は過去の崩壊を完成してしまうだろう。
神々を愛惜した人々にむかっては、唯一の神がとどまっている、と言うことができた。国王らを愛惜してる人々にむかっては、祖国が残っている、と言うことができる。死刑執行人を愛惜するだろう人々にむかっては、何も言うべきものはない。
秩序は死刑執行人とともになくなりはしないだろう。なくなるなどと思ってはいけない。未来の社会の穹窿《きゅうりゅう》は、その醜い要石がなくても崩れはしないだろう。文明というものはあいついで起こる一連の変更にほかならない。いま人が直面しようとするのは、刑罰の変更にである。キリストの穏和な掟は、ついに法典にもはいりこみ、法典を貫いて光り輝くだろう。罪悪は一つの病気と見られるだろう。そしてその病気には、医者があって裁判官のかわりとなり、病院があって徒刑場のかわりとなるだろう。自由と健康とは相似たものとなるだろう。鉄と火とが当てられたところに香料と油とが塗られるだろう。憤怒をもって処置されたその病苦は慈愛をもって処置されるだろう。それは単純な崇高なことだろう。磔刑台のかわりに据えられた十字架。それだけのことである。
一八三二年三月十五日
底本:「死刑囚最後の日」岩波文庫、岩波書店
1950(昭和25)年1月30日第1刷発行
1982(昭和57)年6月16日改版第30刷発行
※原題の「LE DERNIER JOUR D'UN 〔CONDAMNE'〕」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE」としました。
入力:tatsuki
校正:大野晋、小林繁雄、川山隆
2008年5月17日作成
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