フ無料の見世物たるグレーヴの死刑執行だけである。憐れな者ども、空腹から窃盗をするようになり、窃盗からその他のことをするようになる。邪険な社会の裸一貫の子供たち、十二歳で懲治監《ちょうじかん》に引き取られ、十八歳で徒刑場に送られ、四十歳で死刑台にのぼらせられる。不運な人々、一つの学校と仕事場とを与えられれば、善良な者となり、正当な者となり、有用な者となるはずなのを、なすすべを知らぬ諸君のために、ただ無益な荷物として、あるいはツーロン徒刑場の赤服の群のなかに投げこまれ、あるいはクラマール墓地の黙然たる囲壁のなかに投げこまれて、自由を盗まれた後に生命を強奪される。もしそれらの人々の誰かについて、諸君が死刑の廃止を提議していたならば、おお、その時こそ、諸君の会議は本当に立派な偉大な神聖なおごそかな尊むべきものとなったであろう。トラントの崇《あが》むべき教父たちは、異端者らの改宗をも希望したので、神聖会議は不信者の帰依を希うがゆえに[#「神聖会議は不信者の帰依を希うがゆえに」に傍点]、神の内臓[#「神の内臓」に傍点]の名において異端者をも会議に招いたが、そのトラントの会議以来、諸君の会議は人の集会としては、もっとも崇高な顕著な慈悲深い光景を世に示したであろう。弱い者や微賤な者のことを図ってやるのはいつも、真に強い者や真に偉大な者の仕事である。バラモン僧の会議は第四階級の事件を取りあげる時に立派なものとなる。そしてここでは、その第四階級の事件はすなわち民衆の事件である。民衆のために、そして諸君自身の利害が問題となるまで待つことをせずに、死刑を廃止するのであったら、諸君は政治的な仕事以上のものをなすことになり、一つの社会的な仕事をなすことになるのであった。
 しかるに、死刑を廃止せんがためにではなく、武断政略の現行を押さえられた四人の不幸な大臣を救わんがために、それを廃止しようとすることによって、諸君は一つの政治的な仕事をさえもなさなかった。
 そこでどういうことになったか。諸君が真摯《しんし》でなかったと同様に、人は諸君を信用しなかった。
 諸君が民衆をだまそうとしてるのを民衆は見てとって、その問題全体に憤慨し、そして注意すべきことには、自分たちだけでその重みをになっている死刑に対して味方した。民衆をそこまで導いたのは諸君の失策である。その問題に間接に不正直に手をつけて、諸君はそれを長く害《そこ》なった。諸君は芝居をした。芝居は失敗に終わった。
 それでもその茶番狂言を、ある人々は親切にも本気で受け容れてくれた。あのすてきな会議のすぐ後で、正直な司法卿は、あらゆる極刑をいつまでということなく停止するよう、検事長らに指令を与えた。それは表面上一大進歩だった。死刑反対者らは息をついた。しかし彼らのいたずらな望みは長くつづかなかった。
 大臣らの裁判は終結した。どういう判決が下されたかを私はしらない。四人の生命は赦《ゆる》された。ハムの牢獄が死と自由とのあいだの中庸として選ばれた。そういう種々の処置がひとたびなされてしまうと、国政を指導する人々の頭からすべての恐怖が消えうせ、恐怖とともに人情も去った。極刑を廃止することはもはや問題でなくなった。そしてひとたびその問題の必要がなくなると、彼らのいわゆる空想はふたたび空想となり、理論はふたたび理論となり、詩はふたたび詩となってしまった。
 けれどもなお監獄のなかには、数人の不幸な平民の囚人らがいて、五、六か月前からその中庭を歩き、空気を吸い、入獄後おとなしくなり、生きられるものだと信じ、死刑執行の延びるのを赦免のしるしだと思っている。けれども、早まってはいけない。
 実をいえば、死刑執行人はひどく恐れた。立法家が人情や仁愛や進歩などを説くのを聞いた日、彼はもう万事だめだと思った。みじめな彼は断頭台の下にうずくまり、夜の鳥が真昼の光に遭《あ》ったように七月革命の太陽に不安をおぼえ、自分を忘れようとつとめ、耳をふさぎ息をひそめた。そして六か月間姿を見せなかった。生きてるしるしさえ示さなかった。けれどもしだいに彼はその闇黒のなかで安心しだした。彼は議会のほうに耳をすましたが、もう自分の名が口にのぼせられるのを聞かなかった。ひどく恐れていたあの響きの高い堂々たる言説ももう聞こえなかった。『犯罪および刑罰論』の大げさな注釈ももう聞こえなかった。人々は他の事柄に頭を向けていた。ある重大な社会的利害問題、ある村道問題、オペラ・コミック座に対する補助金問題、あるいは、卒中患者みたいな十五億の予算からわずか十万フランの出血治療をなす問題、などに頭を向けていた。もう誰もかの首切り人のことを考えていなかった。それを見て彼は心がおちつき、穴から頭を出して四方を眺めた。そしてラ・フォンテーヌの物語の中のあるはつかねずみのように、一足二足とはい出し、それから思いきってその木組の下からすっかり外に出で、次にその上に跳び乗って、それを修繕し修復し研《みが》き擦《す》り動かし光らして、使われなかったために調子がくるっているその古いさびた機械にふたたび油をぬりはじめる。そして突然彼はふりむいて、監獄のなかから手当りしだいに助かるつもりでいる不運な者を一人つかまえ、その頭髪をつかんで自分のほうへひきよせ、何もかも剥ぎ取り、縄でゆわえ鎖で縛る。そしてふたたび死刑執行がはじまる。
 それは恐るべきことではあるが、しかし事実である。
 実際、不幸な囚人らへ六か月の猶予が与えられた。そのため彼らは助かるかもしれないという望みを懐くことによって、いわれなく刑を重くされたようなものである。六か月後のある朝、理由もなく、必要もなく、なぜかもわからず、面白半分[#「面白半分」に傍点]に、猶予が撤回されて、それらの男たちは規定の切断機へ冷やかにまわされた。ああ、諸君にたずねたい。それらの男たちが生きているということがわれわれ皆の者に何のわずらいとなったか。フランスには万人のために呼吸する空気が十分にないのか。
 ある日、司法省のいやしい一使用人が、どうでもよいことなのに、椅子から立ちあがって、「さて、もう誰も死刑廃止のことを考えていないから、また首切りをはじめてみるかな。」と言ったとすれば、その男の心のなかには、きわめて奇怪な何かがおこったにちがいない。
 それにまた、あえていえば、この七月の猶予撤回の後、死刑執行にはもっとも恐ろしい事故がともなって、グレーヴ刑場の話はもっともいまわしいものとなり、死刑の呪うべきことをもっともよく証明した。そして人の嫌悪を倍加させたことは、死刑法をふたたび実施した人々の受ける正当な懲罰である。彼らはそのなせるわざによって罰せられてあれ。あっぱれ出来《しゅったい》したるものかな。
 死刑執行が往々にしていかに恐ろしい非道なものであるかについて、ここに二、三の実例をあげなければならない。検事夫人らの神経を痛ませなければならない。女は時として良心である。
 昨年の九月の末ごろ、南方で、たぶんパミエでだったと思うが、その場所や日や囚人の名前は今はっきり覚えていない。しかし事実を否定する者があったら、それを探し出してみせてもよい。で、九月の末ごろ、一人の男が監獄のなかで、落ち着いてカルタをやってるところを呼ばれて、二時間後には死ななければならないことを告げられた。彼は全身ふるえあがった。なぜなら、もう六か月間も彼は放っておかれて、死を予期していなかった。彼はひげをそられ、髪を刈られ、縛りあげられ、懺悔《ざんげ》をさせられた。それから四人の憲兵に護られ、群集のあいだを通って、刑場へ車で運ばれた。そこまでは何の奇もなかった。いつもそういうふうになされるのである。断頭台に着くと、死刑執行人は彼を司祭から受け取り、彼を奪い去り、彼を跳板の上にゆわえ、隠語を用いれば彼を竈に入れ[#「竈に入れ」に傍点]、それから肉切り庖丁を放した。重い鉄の三角刃は落ちぐあいが悪く、溝縁の中にがたついて、ひどいことには、男を切っただけで殺すに至らなかった。男は恐ろしい叫び声をたてた。死刑執行人は狼狽して、また庖丁を引きあげて落とした。庖丁は二度|科人《とがにん》の首を切ったが、まだそれを切断しなかった。科人はわめき、群集もわめいた。死刑執行人はまた庖丁を引きあげて、三度目に望みをかけた。だめだった。三度目の打撃は受刑人の首すじから三度血をほとばしらせたが、頭を切り落とさなかった。簡単に述べよう。肉切庖丁は五度引きあげられ落とされて、受刑人を五度切りつけた。受刑人は五度ともその打撃の下にわめき声をたて、宥恕《ゆうじょ》を求めながら生きた頭をうち振った。群集は憤激して石を拾い、みじめな死刑執行人に正義の石を投じた。死刑執行人は断頭台の下に逃げだして、憲兵らの馬の後ろに隠れた。しかしそれだけではない。受刑人は断面台の上に一人きりになったのを見て、跳板の上に立ちあがり、なかば切られて肩に垂れている首を支えながら、血の流れる恐ろしい姿でそこにつっ立って、首を切り離してくれと弱い声で訴えた。群集は憐れみの念でいっぱいになって、いまにも憲兵の列をつき破って五度死刑を受けた不幸な男を助けにいこうとした。ちょうどそのまぎわに、死刑執行人の一人の助手が、二十歳ばかりの青年だったか、断頭台の上にのぼって、縄をといてやるから向きを変えるようにと男に言い、男がそれを信じて言われるままの姿勢をしたのに乗じ、その死にかかってる男の背にとびついて、なんらかのある肉切り庖丁で、首の残りをようやくのことで切り離した。それは実際あったことである。実際見られたことである。本当だ。
 法律の条文によれば、一人の裁判官がその処刑には立ち会っていたはずである。一人の合図で彼はすべてをやめさせることができるのだった。しかるにこの裁判官は、一人の男が屠殺されてるあいだ、その馬車の奥で何をしていたのか。この殺害人懲罰者は、真昼間、眼前で、自分の馬の鼻先で、自分の馬車の扉口で、一人の男が殺害されているあいだ、何をしていたのか。
 そしてその裁判官は裁判に付せられなかった。その死刑執行人は裁判に付せられなかった。神に造られた一個の神聖な人命においてあらゆる掟《おきて》が残酷に破棄されたことについて、どの法廷も詮議《せんぎ》をしたものはなかった。
 十七世紀において、リシュリューやクリストフ・フーケが上に立っている刑法の野蛮時代において、ド・シャレー氏はナントのブーフェーの前で殺されたが、刑執行人の兵士は不器用にも、剣の一撃でせずに、樽屋の手斧で三十四回の打撃を与えた。(ラ・ポルトは二十二回と言ってるが、オーブリーは三十四回と言っている。ド・シャレー氏は二十回まで叫び声をたてた。)その時でもそれは反則なものだとパリ裁判所の目に映じた。調査が行なわれ裁判がなされた。そしてたといリシュリューは罰せられなかったとはいえ、たといクリストフ・フーケは罰せられなかったとはいえ、兵士は罰せられた。むろんそれは不正ではあるが、しかし底には多少正義があった。
 が、こちらには何物もない。七月革命の後に、穏良な風習と進歩との時代に、死刑に対して議会がひどく悲嘆した一年後に起こったことである。ところがその事実は全然看過された。パリの諸新聞はそれを一つの話柄として掲げた。誰も心を動かす者はなかった。高等事務執行者を陥れようとする[#「高等事務執行者を陥れようとする」に傍点]者が故意に断頭台の機械を狂わしていた、ということが知られたばかりだった。死刑執行人の一人の助手が、主人から追い出されて、意趣ばらしにそういう悪事を謀《はか》ったのだった。
 それは一つのいたずらにすぎなかった。が、先をつづけよう。
 ディジョンで、三か月前に、一人の女が刑場に引き出された。(女なのだ!)その時もまた、ギヨタン博士の肉切り庖丁は用をしそこなった。首はすっかりは切れなかった。すると死刑執行人の助手らは女の足につかまり、不幸な彼女のわめき声のあいだに、跳ねあがったりひっぱったりして、頭と体とをもぎ離してしまった。
 パリにおいては、秘密処刑の時
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