死因の疑問
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)近《ちか》さん
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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二月になって、思いがけなく、東京地方に大雪が見舞った。夕方から降り出したのが、夜にはひどい吹雪となり、翌朝は止んでいたが、見渡す限り地上一面に真白。吹雪のこととて、積りかたはさまざまだが、崖下の吹き溜りなどには、深さ一メートルに及ぶところもあった。
雪のあとはたいてい、からりと晴れるのが常だが、その日は薄曇り、翌日も薄曇りで、次の日に漸く晴れ上ったが、その午頃、吹き溜りの雪の中に、若い女の死体が見出されたのである。
そこは、高台と低地との境目で、ゆるい傾斜をなしていて、台地をめぐって道路が通じている。まだ戦災の焼跡のままで、ぽつりぽつりと小さな人家が建ってるに過ぎない。道路の片方、斜面を下りきったところに、雪が深く、その中に死体は埋まっていた。
発見したのは、スキーを楽しんでる子供たちだった。思いがけない大雪だったので、青少年たちは表に飛び出して、思い思いにスキーを始めた。本物のスキー道具を持ち出してる者もあれば、臨時の道具を拵えてる者もあった。坂道はそういう人たちで賑わった。人通りの多い坂道は、やがて、雪が除かれ、或るいは融けて、スキーも出来なくなったが、子供たちはまだ諦めかねて、雪のある斜面に出かけていった。
その子供たちの一群が、奇怪なものに魅せられたように、棒立ちになってしまったのである。斜面の下に吹き寄せられてる雪は、もうだいぶ融けて、じくじくと水づき、稀薄になっていたが、その中に、薄青い布地が拡がっている。布地はオーバーのようで、それが人間の恰好をしている。よく見ると、その人間の恰好には、黒い髪の毛がついており、反対の片端に、ゴム靴の足先がにゅっと突き出ている。
わっと、誰からともなく彼等は声を立て、あわてて逃げ出し、近所のひとに異変を知らせた。
それから大騒ぎとなった。雪の中から取り出されたのは、二十才前後の女の死体で、普通のスーツにオーバーをまとい、ゴムの半靴をはいていた。髪は毛先だけパーマをかけ、顔立は可憐な丸みを持っていた。警察に連絡がつき、検屍の医者が来る少し前に、死人は、そこから程遠からぬ三上さんの家の奥働きの女中、田代清子と判明した。
死体の様子には、取り乱したところは少しもなかった。他殺とも考えられず、自殺とも考えられなかった。念のために死体解剖が行われたが、外傷も内傷もなく、毒物も検出されず、処女であることまで立証された。凍死と見る外はなく、死期はだいたい吹雪の時の夜半過ぎと推定された。然しそれだけでは、なんとなく辻褄の合わないところがあった。
彼女が奉公してる三上家の主人、三上宗助は、国会議員だった。家族としては、夫人と、中学上級の男子、同下級の女子。下働きの女中が一人いた。清子は一年ほど前から、知人の世話で奉公し、奥働きの女中、つまり軽い意味の小間使として、真面目に働いていたのである。夫人の気にも入っていたし、周囲の評判もよかった。
吹雪の夜の夕食後、家事も一通り片附いたあと、八時か九時頃、清子はちょっと買物にと言って、出かけた。まだ雪はそう降っていなかった。それきり帰らなかったのである。三上夫人は心配して、彼女の室を調べたが、平素と変った様子もなかった。それでも、二晩と二日待っても帰らないので、夫人は、捜索願いというほどではなく軽い意味で、一応警察に届けさしておいた。
清子は出かける時、番傘をさして出かけた筈だが、その傘が見当らなかった。他に紛失物はなさそうだった。二百円ばかりはいってる紙入も所持していた。傘は風に飛ばされて、誰かが拾っていったとの解釈もついた。
いったい、どうして凍死するようなことになったのか、痴漢に襲われた様子もないし、自殺としては、動機も不明だし、他に方法もあった筈だ。誰かに誘拐されたとも思えないのは、胃袋に夕食外のものははいっていなかったし、死亡時間からも推測された。恐らくは、買物に出かけて、その帰り途、あの斜面を吹雪のために滑り落ち、気を失って、凍死するに至ったのであろうと、そう認定された。買物については、何を買うつもりだったのか、誰も知ってる者がなかった。
この認定に達するには、実は、三上宗助の内密な運動もあった。国家議員という肩書がいくらかの効果をもたらした。なお、三上夫人が警察に一応届け出ていたことが、有利だった。清子が処女だったという事実は、基本的な条件となった。
斯くして、過失死と認定され、警察の捜査は打ち切られた。仮りの葬儀が営まれて、清子の遺骨は、水戸近在の農村から出て来ていた実兄に抱かれて、郷里に帰った。
それから二週間ほど後のこと、三上家の奥まった室で、言い換えれば三上夫人の居間で、来客の松永夫人と三上夫人とが、人を避けてしんみりと語り合った。二人は多年に亘る親友で、女同志の間ではめったに見られないほど打ち解けて、何の隠し隔てもなく、互に信頼しきってる仲だった。
二人は炬燵にはいって向い合っていた。側の卓上には、菓子や果物、緑茶と紅茶、ウイスキーとビールなど、取り散らされていた。この最後の二品は、二人の友情とその日の談話の性質を示すものだった。
「この節の娘たちの気持ちは、わたくしどもには見当がつかなくなりましたわ」
松永夫人はそう言って溜息をついた。彼女の娘で、女子大学に通っているのが、或る新劇団に関係していたが、この三月限り退学して、正式に舞台に立つことにしたと、言い出したのである。映画女優よりはまだましかも知れないけれど、それにしても、学校を中途退学してまでもと、松永夫人は呆れたが、娘は頑として自分の意志を通そうとしてるのだった。
「でも、お嬢さまの考えかたは、自由で明るくて、御心配なさるほどのこともございますまい。」
三上夫人はそう言って、なにかほかのことに思いを走せてる様子だった。
その時、松永夫人は、亡くなった田代清子のことを持ち出したのである。田代清子、三上家での呼名の清さんを、松永夫人は度々の来訪によってよく知っていた。いい女中さんねと、いつも言っていた。彼女は声をひそめた。
「あのひと、ほんとうにどうしたんでしょうねえ。」
「それが、わたくしにも今もって、よく腑におちないんですの。」
何気ない言葉のやりとりから、遂に三上夫人は、一切のことを打ち明けてしまった。
以下は、三上夫人の話である。もとより、松永夫人との対話であって、こういう親しい夫人同志の対話は、ずいぶん機微にふれる露骨なこともあるが、また、肝腎な点を素通りしてしまうこともある。その対話を、三上夫人の話、というよりは寧ろ告白という形に、まとめてみたのである。
ああいうことになって、ほんとに惜しいことを致しました。いいえ、わたくしどもにとってではございません。あのひと自身のことを申すのです。
御存じの通りの娘で、顔立も可愛く、こぎれいで、いつもにこにこして、よく働いてくれますので、わたくしもずいぶん目をかけてやっておりました。家庭で働くというよりは、たとえて申せば、会社の女事務員とか、デパートの売子とか、そういう方面へも向くような人柄でした。或る時、ふと、そのことに触れてみますと、
「そのようなこと、きらいでございます。」
一言、きっぱりと答えました。
ふだんは無口な代りに、思ったことははきはき言う方でした。言葉遣いも、田舎から出て来た当座は、だいぶ訛りがありましたが、たいへん早く標準語に直ってしまいました。電話の受け応えも、自然に覚えてしまいました。まあ、頭がよろしいとでも申しましょうか。
でも、よく注意してみますと、いつもにこにこしておりますが、どことなく陰気らしいところ、なにか暗い影を背負っているようなところが、ありました。会社勤めなどは嫌いだというのは、本当のことだったのでしょう。手紙は時々参りましたが、往き来する友だちもなかったようでしたし、映画を見に行くこともめったにありませんでした。
母親は幼い時に亡くなり、父親の手で育てられたのですが、あの子の言葉のはしばしから察しますと、頑固な一徹な気性の父親だったらしく思われます。兄は、事件当時こちらへ出て来ましたので、わたくしは直接逢いましたが、律気なむっつりした男でした。いったい、あの子は自分の身の上のことを、あまり口にしたがりませんでした。
あとで、も一人の女中、近《ちか》さんに、聞いたことですが、あの子は郷里にいる頃、女学校を卒業する前後のことでしょうか、ひそかに愛してる男があったようです。同じ村の、昔は大きな地主だった格式の高い家の息子で、東京の或る専門学校に通ってる学生でした。休暇の折りには、いろいろな物を買ってきてくれたそうです。二人の仲がどれほどのものだったかは分りませんが、まあ、初々しい牧歌的なものだったのでしょう。ところが、その学生が、東北地方の山に雪中登山をして、遭難して死にました。何という山だか、近さんは聞きもらしていましたが、この話ぜんたいも、近さんの想像が相当にはいっているらしく、確実なことは分りかねます。けれども、このことが、あの子の心に深い極印《こくいん》をおしていたに違いないと、いろいろな点で考えられます。
わたくしはあの事件後、ひそかに、あの子の室を仔細に調べてみました。警察の方でさんざん掻き廻した後のことでもあり、もとより、何の手がかりも得られませんでした。ところが、近さんの話を聞いて、はっと気付いたことがあります。それは、あの子が持っていた書物のことです。僅かな冊数の小型なものでしたが、その多くが登山記でした。アルプスやヒマラヤのいろいろな登攀記の飜訳、日本アルプスなどの登山記録、それから、山で遭難した人の最後までの手記など。初めは、珍しい物好きだぐらいにしか気に留めず、兄に持たしてやりましたが、近さんの話を聞いてから、ただの物好きだけではなかったように思われてきました。それらの書物をもっとよく調べてみなかったことが、今では残念でなりません。
それから、序でに申しますが、あの子の書物には、登山記の外に、法華三部経だの、浄土三部経だの、日蓮の伝記だの、幾冊かの仏教関係の書物がありました。これは、若い女の読み物としてはへんですけれど、あの当時、わたくしには意外には思われませんでした。と申すのは、あの子はふだん、仏壇をたいへん鄭重に扱いまして、お盆とか春秋のお彼岸とかには、わたくしに先立っていろいろな供物を致しました。それから、郷里の伯母が日蓮宗の深い信者であることを、なにかと話してくれていました。それ故、それらの書物も兄に持たしてやりましたが、今となってみますと、特別な意味があったことのように考えられます。
あの子の後ろについて廻ってたような暗い影、雪中登山で遭難した恋人の話、いろいろな登山記、日蓮宗信者の伯母、仏教に関する書物……こう並べてみますと、若い女の心理の不思議さに、わたくしはびっくりさせられます。わたくしの考え違いでございましょうか。でも、わたくしたちの娘時代は、もっと単純で平明だったような気が致しますもの。あの子があのような死に方さえしなければ、ふだんのにこにこした素直な表面だけしか、わたくしの眼にはとまりませんでしたでしょう。
たいへん遠廻りなお話を致しましたが、実は、わたくしにも、あの子の死は、単に過失死とだけでは片附けられないように思われます。前からの事情を、恥をしのんで、お打ち明け致しましょう。他聞を憚る事柄ですから、ここだけのことにしておいて下さいませ。もちろん、警察の方へも内緒にしておいたことなのです。
一月の末のことでした。晩に幾人かの来客がありまして、そのうちのお二人は泊ってゆかれました。このようなこと、御存じの通り、わたくどもでは珍しいことではございません。ところが、その翌
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