朝、泊りのお客も帰られてから、わたくし一人のところへ、あの子が、清さんが、やって来まして、奥さま、と言ったきり、蒼ざめた真剣な顔を俯向けています。
 なにかただごとでない気配ですから、わたくしは、黙ってあとを待ちました。清さんはちらとわたくしの顔を仰ぎ見て、懐から真白な角封筒を取り出しました。
「奥さま、杉山さまがさきほど、これをわたくしに無理やりおしつけなさいましたが、お返しするひまがございませんでした。わたくし、いやでございますから、奥さまから、お返しして下さいませんでしょうか。」
 封筒は無封のままでしたから、中をあらためてみますと、千円紙幣が三枚はいってるきりで、ほかには何にもありません。
「これ、どうしたんですの。」
 酒を飲んだり泊ったりして手数をかけたための心附けとしては、あまりに多すぎる金額でした。わたくしは気持ちにいやな陰がさして、眉をしかめました。
 その時思い出しましたが、洗面所の隅で、杉山さんが清さんをつかまえて、手を大きく打ち振りながら、何か言っていらっしゃるところを、ちらと見たことがあります。つまらないことで清さんをからかってるのだとばかり思って、気にもしませんでしたが、たぶん、この封筒のことだったのでしょう。
 杉山さんというのは、あなたも御存じの杉山隆吉さんで、宅の主人と同じ政党に関係なすってるかた、まだ議員候補にお立ちなすったことはありませんが、お年のわりには才能手腕とも優れていらして、将来を嘱目されているとか聞いております。でもわたくしとしましては、あの我武者羅な押しの強い人柄を、あまり好きではございません。
 清さんは黙って俯向いていて、容易に事情を打ち明けようとしませんでしたが、やがて、決心したように言い出しました。そうなりますと、実にはっきりしております。
 前夜、みんなやすんでしまった後、清さんは自分の室で、寝床も敷かず、着物も着換えず、電燈をあかあかとつけたまま、書物を読んでいたそうです。
 ちょっとお断りしておきますが、宅では、女中部屋は三畳で狭いものですから、そこには近さんだけ寝かすことにしまして、書生部屋の四畳半が空いてるものですから、そこを清さんの部屋にしてやっておりました。
 その自分の部屋で、清さんは寝仕度もせず、夜更けまで書物を読んでおりました。すると、何時頃だか分りませんが、夜中に、奥の便所へ誰かが行き、その人が、清さんの部屋の方へやって来て、そっと襖を開けました。それが、杉山さんだったのです。
 杉山さんの寝間着姿を一目見ると、清さんはとっさに立ち上りました。部屋の出入口は二つあります。その一つ、杉山さんがはいってきたのとは別の出入口から、清さんは逃げ出して台所へ行き、水をじゃあじゃあ流し、もう洗ってある食器類をまたがちゃがちゃやり、ただやたらに物音を立てました。
 そんなことを気長にやって、それから、そっと自分の部屋の方へ戻ってきて、様子を窺いますと、杉山さんはもう居ませんでした。それで清さんは、電燈を消して横になりましたが、着物は着たまま、ただ蒲団をひっ被って、うとうとしただけだったらしゅうございます。
 朝になっても、清さんは杉山さんを避けておりましたが、とうとう洗面所でつかまりました。その時、杉山さんは、三千円入りの封筒を清さんの懐に押し込んだのです。
「ほんの僕の気持ちだ。なんでもないんだ。内緒にしとくんだよ。三上さんの耳にはいると、僕もちょっと工合が悪いんだ。こんどまた、ゆっくり話すよ。」
 杉山さんはそんなことを言ったそうです。
 清さんはその封筒を、ちょっと中を覗いてみただけで、持てあまし、わたくしへ差出したのでした。
 清さんのその話、あなたもお気づきのことでしょうが、どうも腑に落ちないところがございます。ただそれだけではない、なにかほかにある、そうわたくしも感じました。たとえ杉山さんが、酔ったまぎれに、ちょっとおからかいなすったことがあったにせよ、清さんが着物を換えず寝床も敷かず、夜更けまで警戒していたというのは、おかしいではございませんか。
 しばらく考えましたあと、わたくしはその点を、なるべく差し障りのない言葉遣いで、そっと突っ込んでみました。
 そうしますと、驚くではございませんか、清さんは、もっと大変なことを平気で打ち明けました。
 半月ほど前、お正月の門松がとれた後のことだったと覚えております。やはり大勢の来客がありまして、お正月じまいだというので、さんざん飲み食いしたあげく、そのうちのお三人は、酔いつぶれて泊っていかれました。
 その夜中のことです。清さんの部屋へ誰かはいって来て、いきなり、清さんの蒲団の中にもぐり込みました。真暗な中で、清さんはただ固く縮みこんだまま、どうすることも出来なかったそうです。するとその男は、清さんに抱きついて、さんざん勝手な嫌らしいことをして、しばらくして出て行きました。その男が、杉山さんだったのです。
 清さんの死体解剖の結果、あのひとがまだ処女だったことが分りました時、わたくしはどんなに喜んだか知れません。いえ、喜んだというよりは、安堵したと申す方が正しいでしょう。
 けれど、清さんから右の話を聞きました当座、わたくしはほんとに息づまるような気が致しました。さんざん勝手な嫌らしいことと、清さんはじっさい言いましたが、それがどんなことだったか分りませんし、詳しく聞き糺すわけにもいきませんでした。わたくしの推測では、これはきっと、清さんが手籠めにされて身を汚されたものとしか思えませんでした。清さんが自分の娘でしたら、そのような点をもっと詳しく聞いただろうと、今となっては残念でなりません。
 あの時、前に坐ってる清さんが、わたくしには悪《にく》らしくさえなりました。身を汚されながら、しゃあしゃあとそのことを打ち明け、涙一滴こぼさないのですもの。もしかしたら、小娘らしく取り澄してはいるものの、案外、すれっからしのしたたか者かも知れないと、疑いの念さえ起るではございませんか。
 それと共に、一方では、わたくしはむしょうに腹が立ちました。清さんはよその家の大事な娘さんです。それをわたくしの家に預りながら、とんでもないことになってしまったのです。わたくし自身の娘が、もしもそのような目に逢ったとしたら、どう致しましょう。その腹立ちが、杉山さんへよりも、眼の前の清さんへ向いていきました。
「その時、なぜ逆らわなかったのです。噛みついてやるなり、声を立てて助けを呼ぶなり……。家の中ですよ、野原の中ではありませんからね。」
 わたくしはむしゃくしゃして、清さんを睥みつけていたらしゅうございます。
 すると、突然わたくしは、天から地へ転げ落ちたような思いがしました。清さんが静かに、次のように申したのです。
「はじめは、杉山さまとは分りませんでした。はじめは、旦那さまかと思いましたので……。」
「旦那さまだったら……我慢してるというんですか。」
「はい。」
 はいというその返事が、錐のようにわたくしの胸に刺さりました。
 嫉妬とまでは申しますまい。疑惑とでも申しましょうか。一度に、さまざまな疑惑が湧き上ってきました。
 清さんは、わたくしにばかりでなく、三上にも気に入っていました。わたくしは目にかけて可愛がってやり、三上もあの粗暴な性質にも拘らず、やさしく使っていました。なにか粗相をしでかしても、ただ注意をしてやるだけで、叱るというようなことはありませんでした。三上の身辺の用も、だんだん、わたくしに代って清さんがしてくれることが多くなっていました。
「清さんにばかり任せておかないで、お前も少し僕の面倒をみなさい。」
 笑いながら冗談に、三上はそんな風に申したことがあります。
 その言葉が、逆な意味でわたくしの胸に蘇ってきました。そのほかいろいろな日常の些細なことが、意味ありげに胸に浮びました。
 もしかすると、三上と清さんとの間に、なにか特別な関係が出来ているのではあるまいか。そう疑ぐるのは恐ろしいことですけれど、世間に例のないことではございません。愛情の問題ではなく、ただ気紛れな遊びに過ぎないとしましても、妻としてはそれは堪え難いことではございませんか。
 あの晩、清さんのところに忍び込んだ男が、もし三上だったとしたら……。はじめは旦那さまかと思ったと、清さん自身で申しました。前にそんなことがなかったと、どうして保証出来ましょう。断っておきますが、わたくしは清さんがもう処女ではないと思っておりましたのです。
 わたくしは取り乱したのでございましょうか。でも、わたくしのような立場に立たれましたら、あなたはどうなさいますでしょうか。
 わたくしは清さんとの話を切り上げました。今後のことはわたくしに任せておきなさいと言って、杉山さんからの封筒を預りました。けれど、実は、杉山さんのことはもう遠くにかすんでいて、三上のことが前面に立ちふさがっていたのです。
 わたくしは三上の様子に眼をつけました。清さんの様子にも眼をつけました。それでも、ふしぎに……ふしぎにと言うのが今ではおかしいのですけれど、何の手掛りも得られませんでした。三上はいつもの通りですし、清さんは杉山さんのことが一段落ついて安心したとでもいうような風です。わたくしの疑惑は、外へのはけ口を失って、内攻するばかりでした。
 そのようなわけで、わたくしは自分の気持ちを持てあまし、一層のこと、正面攻撃に出て、一挙に黒白をきめてしまおうと決心しました。
 三上はいつも外出がちですが、或る晩、早めに帰って来ました時、先方の虚を突くつもりで、いきなり茶の間で話を切り出しました。
 女中たちはそれぞれの部屋に引き取らせ、子供たちは自分の部屋で勉強しておりました。話の中途で、三上が書斎か応接室かに私を連れて話を持ちこむなら、これは怪しいと判断してもよいという、策略もあったのです。
 あなたは清さんをどう思っていらっしゃいますか、と真正面からわたくしは切り出しました。まさか、いかがわしい関係をつけてはいらっしゃいますまいね、と直接に切り込んでゆきました。それならそれと、はっきりしておいて頂きたいものです、と念を押しました。
 自分でもおかしなほど、事務的な話しかたでした。それというのも、三上の太い神経には、デリケートな言いかたでは役に立たないと思ったからです。ところが、事務的な直截な言葉に対してさえ、三上はけろりとしていて、一向に反応がありません。少し酒に酔ってもいましたが、面白そうににやにや笑っています。
「それは近頃にない楽しい話だ。僕の身辺も少し華やいできたかな。」
 そんな風に茶化して、煙草を吹かしているではございませんか。
 わたくしは当が外れたというよりは、なにか癪にさわって、あなたの方はとにかく清さんの方が怪しい、と言い出しました。三上の表情はとたんに変って、はっきり説明しなさい、ときました。そこでわたくしは、杉山さんのこと、それから清さんの言葉など、はっきり説明してやりました。
 三上は一言も挾まず、黙って聞いておりましたが、次第に、眉をひそめて険悪な表情になってゆきました。わたくしが話し終りますと、「よろしい、分った。清さんをここに呼んできなさい。」
 一徹な見幕でした。
 わたくしとしましては、まるっきり見当が違ってきました。でもとにかく、年若い娘のことですから、と一応宥めておいて、清さんを呼びました。清さんが出て来ますと、三上は苦い顔をしましたが、酒を一本つけてこいと言いつけました。なにか苛ら立ってる気持ちを無理に押えつけてるようでした。
 それから、三上はずっと黙っていました。酒の燗が出来、有り合せの品で飲みはじめましたが、近さんはさがらせ、清さんだけを席に呼びました。
「君は利口なようで、実はばかだ。大ばかだ。」と三上は言い出しました。
 わたくしは側ではらはらしましたが、三上はわたくしの口出しを差し止めました。
「君は僕の顔に泥をぬるつもりか。」と三上は言いました。
 清さんは固くなって、差し俯向いていました。
 三上はそれでも、よほど自制して
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