でした。ところが、近さんの話を聞いて、はっと気付いたことがあります。それは、あの子が持っていた書物のことです。僅かな冊数の小型なものでしたが、その多くが登山記でした。アルプスやヒマラヤのいろいろな登攀記の飜訳、日本アルプスなどの登山記録、それから、山で遭難した人の最後までの手記など。初めは、珍しい物好きだぐらいにしか気に留めず、兄に持たしてやりましたが、近さんの話を聞いてから、ただの物好きだけではなかったように思われてきました。それらの書物をもっとよく調べてみなかったことが、今では残念でなりません。
それから、序でに申しますが、あの子の書物には、登山記の外に、法華三部経だの、浄土三部経だの、日蓮の伝記だの、幾冊かの仏教関係の書物がありました。これは、若い女の読み物としてはへんですけれど、あの当時、わたくしには意外には思われませんでした。と申すのは、あの子はふだん、仏壇をたいへん鄭重に扱いまして、お盆とか春秋のお彼岸とかには、わたくしに先立っていろいろな供物を致しました。それから、郷里の伯母が日蓮宗の深い信者であることを、なにかと話してくれていました。それ故、それらの書物も兄に持たしてやりましたが、今となってみますと、特別な意味があったことのように考えられます。
あの子の後ろについて廻ってたような暗い影、雪中登山で遭難した恋人の話、いろいろな登山記、日蓮宗信者の伯母、仏教に関する書物……こう並べてみますと、若い女の心理の不思議さに、わたくしはびっくりさせられます。わたくしの考え違いでございましょうか。でも、わたくしたちの娘時代は、もっと単純で平明だったような気が致しますもの。あの子があのような死に方さえしなければ、ふだんのにこにこした素直な表面だけしか、わたくしの眼にはとまりませんでしたでしょう。
たいへん遠廻りなお話を致しましたが、実は、わたくしにも、あの子の死は、単に過失死とだけでは片附けられないように思われます。前からの事情を、恥をしのんで、お打ち明け致しましょう。他聞を憚る事柄ですから、ここだけのことにしておいて下さいませ。もちろん、警察の方へも内緒にしておいたことなのです。
一月の末のことでした。晩に幾人かの来客がありまして、そのうちのお二人は泊ってゆかれました。このようなこと、御存じの通り、わたくどもでは珍しいことではございません。ところが、その翌朝、泊りのお客も帰られてから、わたくし一人のところへ、あの子が、清さんが、やって来まして、奥さま、と言ったきり、蒼ざめた真剣な顔を俯向けています。
なにかただごとでない気配ですから、わたくしは、黙ってあとを待ちました。清さんはちらとわたくしの顔を仰ぎ見て、懐から真白な角封筒を取り出しました。
「奥さま、杉山さまがさきほど、これをわたくしに無理やりおしつけなさいましたが、お返しするひまがございませんでした。わたくし、いやでございますから、奥さまから、お返しして下さいませんでしょうか。」
封筒は無封のままでしたから、中をあらためてみますと、千円紙幣が三枚はいってるきりで、ほかには何にもありません。
「これ、どうしたんですの。」
酒を飲んだり泊ったりして手数をかけたための心附けとしては、あまりに多すぎる金額でした。わたくしは気持ちにいやな陰がさして、眉をしかめました。
その時思い出しましたが、洗面所の隅で、杉山さんが清さんをつかまえて、手を大きく打ち振りながら、何か言っていらっしゃるところを、ちらと見たことがあります。つまらないことで清さんをからかってるのだとばかり思って、気にもしませんでしたが、たぶん、この封筒のことだったのでしょう。
杉山さんというのは、あなたも御存じの杉山隆吉さんで、宅の主人と同じ政党に関係なすってるかた、まだ議員候補にお立ちなすったことはありませんが、お年のわりには才能手腕とも優れていらして、将来を嘱目されているとか聞いております。でもわたくしとしましては、あの我武者羅な押しの強い人柄を、あまり好きではございません。
清さんは黙って俯向いていて、容易に事情を打ち明けようとしませんでしたが、やがて、決心したように言い出しました。そうなりますと、実にはっきりしております。
前夜、みんなやすんでしまった後、清さんは自分の室で、寝床も敷かず、着物も着換えず、電燈をあかあかとつけたまま、書物を読んでいたそうです。
ちょっとお断りしておきますが、宅では、女中部屋は三畳で狭いものですから、そこには近さんだけ寝かすことにしまして、書生部屋の四畳半が空いてるものですから、そこを清さんの部屋にしてやっておりました。
その自分の部屋で、清さんは寝仕度もせず、夜更けまで書物を読んでおりました。すると、何時頃だか分りませんが、夜中に、奥の便所へ誰かが行き、
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