その人が、清さんの部屋の方へやって来て、そっと襖を開けました。それが、杉山さんだったのです。
杉山さんの寝間着姿を一目見ると、清さんはとっさに立ち上りました。部屋の出入口は二つあります。その一つ、杉山さんがはいってきたのとは別の出入口から、清さんは逃げ出して台所へ行き、水をじゃあじゃあ流し、もう洗ってある食器類をまたがちゃがちゃやり、ただやたらに物音を立てました。
そんなことを気長にやって、それから、そっと自分の部屋の方へ戻ってきて、様子を窺いますと、杉山さんはもう居ませんでした。それで清さんは、電燈を消して横になりましたが、着物は着たまま、ただ蒲団をひっ被って、うとうとしただけだったらしゅうございます。
朝になっても、清さんは杉山さんを避けておりましたが、とうとう洗面所でつかまりました。その時、杉山さんは、三千円入りの封筒を清さんの懐に押し込んだのです。
「ほんの僕の気持ちだ。なんでもないんだ。内緒にしとくんだよ。三上さんの耳にはいると、僕もちょっと工合が悪いんだ。こんどまた、ゆっくり話すよ。」
杉山さんはそんなことを言ったそうです。
清さんはその封筒を、ちょっと中を覗いてみただけで、持てあまし、わたくしへ差出したのでした。
清さんのその話、あなたもお気づきのことでしょうが、どうも腑に落ちないところがございます。ただそれだけではない、なにかほかにある、そうわたくしも感じました。たとえ杉山さんが、酔ったまぎれに、ちょっとおからかいなすったことがあったにせよ、清さんが着物を換えず寝床も敷かず、夜更けまで警戒していたというのは、おかしいではございませんか。
しばらく考えましたあと、わたくしはその点を、なるべく差し障りのない言葉遣いで、そっと突っ込んでみました。
そうしますと、驚くではございませんか、清さんは、もっと大変なことを平気で打ち明けました。
半月ほど前、お正月の門松がとれた後のことだったと覚えております。やはり大勢の来客がありまして、お正月じまいだというので、さんざん飲み食いしたあげく、そのうちのお三人は、酔いつぶれて泊っていかれました。
その夜中のことです。清さんの部屋へ誰かはいって来て、いきなり、清さんの蒲団の中にもぐり込みました。真暗な中で、清さんはただ固く縮みこんだまま、どうすることも出来なかったそうです。するとその男は、清さんに抱きついて、さんざん勝手な嫌らしいことをして、しばらくして出て行きました。その男が、杉山さんだったのです。
清さんの死体解剖の結果、あのひとがまだ処女だったことが分りました時、わたくしはどんなに喜んだか知れません。いえ、喜んだというよりは、安堵したと申す方が正しいでしょう。
けれど、清さんから右の話を聞きました当座、わたくしはほんとに息づまるような気が致しました。さんざん勝手な嫌らしいことと、清さんはじっさい言いましたが、それがどんなことだったか分りませんし、詳しく聞き糺すわけにもいきませんでした。わたくしの推測では、これはきっと、清さんが手籠めにされて身を汚されたものとしか思えませんでした。清さんが自分の娘でしたら、そのような点をもっと詳しく聞いただろうと、今となっては残念でなりません。
あの時、前に坐ってる清さんが、わたくしには悪《にく》らしくさえなりました。身を汚されながら、しゃあしゃあとそのことを打ち明け、涙一滴こぼさないのですもの。もしかしたら、小娘らしく取り澄してはいるものの、案外、すれっからしのしたたか者かも知れないと、疑いの念さえ起るではございませんか。
それと共に、一方では、わたくしはむしょうに腹が立ちました。清さんはよその家の大事な娘さんです。それをわたくしの家に預りながら、とんでもないことになってしまったのです。わたくし自身の娘が、もしもそのような目に逢ったとしたら、どう致しましょう。その腹立ちが、杉山さんへよりも、眼の前の清さんへ向いていきました。
「その時、なぜ逆らわなかったのです。噛みついてやるなり、声を立てて助けを呼ぶなり……。家の中ですよ、野原の中ではありませんからね。」
わたくしはむしゃくしゃして、清さんを睥みつけていたらしゅうございます。
すると、突然わたくしは、天から地へ転げ落ちたような思いがしました。清さんが静かに、次のように申したのです。
「はじめは、杉山さまとは分りませんでした。はじめは、旦那さまかと思いましたので……。」
「旦那さまだったら……我慢してるというんですか。」
「はい。」
はいというその返事が、錐のようにわたくしの胸に刺さりました。
嫉妬とまでは申しますまい。疑惑とでも申しましょうか。一度に、さまざまな疑惑が湧き上ってきました。
清さんは、わたくしにばかりでなく、三上にも気に入っていました。わた
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