つまらないことは飛ばしまして、わたくしに深い印象が残ってることが一つあります。夕方、庭になにか用があって出ていました時、ふと見上げると、二階の縁側に清さんが佇んでいました。雨戸を閉めに行ったのでしょうか、半分ばかり閉めて、その端に寄り添うような風で、そして胸に両手をあて、じっと立っているのです。もう陽は沈んでいましたが、その残照を受けてる赤い雲が、千切れ千切れに、ゆるやかに西空に流れていました。その雲を眺めながら、清さんはじっと佇んでいます。
 その時清さんは、和服を着ていました。宅へ来ました時から、洋服しか持っていませんでしたので、年の暮に、わたくしは、実家の末の妹の、もう派手すぎるという和服のお古を一揃い、貰って来まして、清さんに与えたのでした。赤い椿の花を大きく散らした銘仙のついの着物と羽織、真赤なメリンスの帯。それを清さんはたいへん嬉しがって、お正月から着初めました。袖丈なども丁度合っていました。けれど、帯は自分で締められず、近さんに締めて貰うのですから、いつでも着てるというわけではなく、洋服とちゃんぽんに用いていたのです。
 その和服を着て、清さんは、二階の縁側の半分ほど閉めた雨戸に寄り添い、胸に両手をあて、西空に流れる赤い千切れ雲を眺めているのです。雲の色の反映か、全身が赤っぽい靄に包まれてるようで、そして薄らいで見えました。何を考えてるのでしょうか、または無心なのでしょうか、いつまでも動きません。
 わたくしは庭から、清さんの様子を窺いながら、これまで、仕事の中途で休むなどということを清さんは一度もしなかったのに……とふと思いついて、へんな気持ちになり、そっと家の中にはいりました。
 その時の印象が、今もはっきり残っております。けれども、わたくしは清さんを長く見守ることは出来ませんでした。幾日もたたないうちに、吹雪の夜がやって来、それからあの変事です。
 わたくしは、清さんがあの崖から過って滑り落ちたのだとは、なんだか信じられません。それかといって、自殺の覚悟だったとも、信じられません。清さんは吹雪の夜、ちょっとした用で外に出かけ、途中で何かの幻想に溺れて、ふらふらと雪の吹き溜りの方へ踏み込んでゆき、不用心のあまり凍死するようなことになった、そのように想像しますのは、年甲斐もなく甘いロマンチックな気持ちでしょうか。凍死というものは、或る一点をすぎる
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